good-bye,my saddness

 薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から一筋の光が差していた。時計を見ると午前四時。朝と呼ぶにはまだ早い。ふと腕の中にぬくもりを感じて布団をめくると、愛するひとが眠っていた。お互いに年齢を重ねた。十年も経ったのに、整った顔立ちは健在で憎らしい。あの頃とは違う、茶色に染めていない少し癖のある髪の毛を、まぜっ返した。そのぬくもりが離れていかないように、抱え直して、また瞼を閉じた。

 ある日、ポストを開けたら宛先も差出人も書かれていない封筒が入っていた。不審に思い、開けると一つの鍵と一言のメモ。メモには『バイバイ』。鍵に見覚えがあるような気がして、自分の部屋の鍵と比べた。同じものだった。これを――、合鍵を渡しているのは一人しかいない。スマホを取り出して、リダイヤルから電話をかける。そして返ってきたのは無情な言葉。『現在、この電話番号は使われておりません――』。
 翌日、仕事の合間に、アヅマと連絡が取れないことをぼやいた。
「お前、聞いてなかったのか? アヅマくんはあの会社を辞めたぞ」
「はあ?」
「向こうの社長から連絡があってな。一ヶ月前くらいに、急に引っ越さないといけなくなったから、辞めるって話があったらしい。まあ、俺が紹介した手前、連絡くれてよ。……もしかして、知らなかったのか、辞めるのを」
そんなこと、聞いていない。愕然とするミツギに、社長は眉を顰めた。
「聞いてねえ」
「同居人くん、お前に何も言わないでどっか消えちまったのか」
そんな二人を眺めていたシイナがふと、思い出したように、呟いた。
「……もしかして」
「何だ?」
少しだけ顔を青ざめさせたシイナが恐る恐るといったふうに、口を開いた。
「ミツギさん、例の取引先のご令嬢にすごい気に入られてたじゃないですか。あそことは懇意にしてるから無碍にも出来なくて、ミツギさん困ってたましたよね? ちょうど一ヶ月くらい前に、たまたまアヅマくんに会った時にそのことをぼやいたんです。もしかして、それが原因だったり……」
シイナは頭を抱えた。まさか。そのことならもう決着はついている。社長を通して、例の取引先の社長にお嬢さんと交際は出来ない、と伝えてそれきりのはずだ。
「関係ねえだろ。たまたまに決まってる。……ちっ、仕方ねえ奴だな。社長、辞めた後はどうするかとか、向こうは何も聞いてないんですか?」
「うーん、それがな、何も言わなかったらしいんだ。ただ引っ越すとだけ言ってたらしくて」
それにしてもどこに行ってしまったのか、見当もつかない。何せ、アヅマには帰る実家などないし、どこかに身内が居るなどの話も聞いたことがない。ミツギは髪の毛を掻き上げ、かいた。あのメモを見た時、正直そこまで危機感はなかった。ただ、ミツギと距離を取りたいのだろうと。しかし、電話番号まで変えて、仕事先も辞めているとなると、話は違う。
(どうする……? 興信所か? 身内でもねえのに? こういう時、結婚できねえってのは面倒だな……)
はあ、と大きく溜息を吐いた。二ヶ月ほど前に交際して一年が経ったばかりであった。プレゼントをしたら本当に喜んでいて、こんなことになるなんて、そんな気配すらなかった。何だか、首が苦しいような気がして、シャツのボタンをひとつ外すと、席に着いて仕事に取り掛かった。

 アヅマが消えてから、十年。ミツギは三十六歳になっていた。四十路も近くなって、さすがに金髪ロングヘアーはやめた。ミツギでも歳くらいは考えるのである。アヅマが消えてから、五年は彼が帰ってくるのを待った。あらゆる伝手を使って、彼を探した。結局興信所も使った。けれど見つからなかった。まるで最初からそこに居なかったかのように、彼という存在は消え失せてしまった。その後の五年はただ彼という幻影を頭から消し去るために、ひたすらに働いた。そのおかげか、会社の業績は右肩上がりで、あの頃以上に、忙しくなった。散らかる部屋を片付けてくれる人も、好みに合った食事を作ってくれる人もなく、ただ一人で思い出の残るあの部屋で暮らしていた。社長に見合いをセッティングされそうになったりもしたが、全部断った。一年という短い間だけの刹那のまぼろし。それだけがただ心残りで、誰かと交際する気も起きなかった。誰からも声がかからなかったわけではなく、ひたすらに彼のことが心残りで、ずっと一人でいることを選んだ。社長は何も言わないが、取引先や現場の職人から言われることがある。そろそろ身を固めてもいいのではないか、と。本当は、出来るならそうしたかった。彼と結婚したかった。だが、現行法では同性同士では婚姻はできない。だから家庭を持つのはいいぞと言われても、子供が出来たら可愛い、と言われてもピンとこなかった。家庭を築くのは、彼とでなければ意味がなかった。自分の恋人のことをペラペラと話すミツギではなかったので、もしかしてモテないのか? と要らぬ心配をされたが、気にも留めなかった。もし――、彼と結婚できていたら、違ったのだろうか。彼はずっと自分のそばに居てくれたのだろうか。ただ疑問だけが降り積もってゆく。あの日、贈った指輪を見て、本当に嬉しそうに笑っていたのに。仮初じゃない、本物のマリッジリングだったなら、彼は今も隣で笑っていたのだろうか。
 出張先のビジネスホテルに着いた。主要駅から電車で三時間。ビジネスホテルが駅前にかろうじてあるが、他には何もないという寂れぶりだ。ここからしばらく電車に乗って行ったところに、知る人ぞ知る風光明媚な沢があるらしく、自治体としては観光地として推していきたいのだけれど、何もなさすぎて観光客を誘致しづらいとのことで、地元の工務店と共同で旅館を建築することになった。ミツギのところの社長と、自治体の観光協会の担当者が大学の同期ということで白羽の矢が立った。本来なら公共工事入札などの話が出るのだが、そこで地元の工務店が落札し、あくまでもメインは地元の工務店であってミツギの会社は協力という建前なのである。多忙な社長に代わって、ミツギが馳せ参じることになったのは、会社の中でもやり手の一級建築士であり、社長の名代としてなんら問題もないということが理由であった。ホテルに荷物を置いて、例の工務店に向かうことにする。スマホでマップアプリを開く。徒歩四十分。バスは一時間に一本。
(だりい……)
ホテルのフロントに言って、タクシーを呼び付けた。大きな溜息を吐いて、乗り込む。
 工務店に着くと営業用の笑顔を貼り付けた。
「よろしくお願いいたします」
「いやいや、こちらこそ。よろしくお願いいたします。東京からここまで遠かったでしょう」
一通りの挨拶を済ませると、にこやかに親方が微笑む。現場に行くと、職人気質で気難しいタイプの親方が多いが、ここの社長は笑顔でとりなすタイプらしい。
「うちにも建築士いますけど、一級は一人しか居なくて。まあ、田舎の工務店って感じなのでなかなかねえ。二級は二人居るんですけど、一人はまだなりたてで。ぜひ勉強させてくださいね。……ああ、でも他の現場行ってるんでした。会えるかどうか分からないですが」
社長は湯呑みを撫でながら、優しげに笑う。
「着いて早々で恐縮なのですが、さっそく仕事に取り掛かりましょう」
「はい」
図面を見ながらああだこうだと言いながら、日が過ぎていく。明日には現場に行って、実際の場所を見に行くつもりだった。飲みに誘われて、これから一緒に働くのだから断るわけにもいかず、着いていくことにした。歩いて十分くらいしたところに小料理屋があって、そこに入る。
「いらっしゃい」
「こんばんは、女将。こちら東京からいらした建築士さんだよ。これから一緒に仕事するんだ」
愛嬌のある女将が、ミツギを見て驚きと親しみを込めた笑みを浮かべた。
「あらあら、まあ。そんな遠いところから、いらしたの。大変だったわねえ。ゆっくりしていってね」
「……はあ」
ミツギは曖昧な返答を述べて、社長が注文しているのを聞き流しながら、壁に貼り付けられているメニュー表を眺めていた。

 久しぶりに夢を見た。アヅマの夢を。彼は笑っていた。
(アイツ、夢にすらなかなか出てきやしねえ)
夢の中のことだから、あまり覚えてないけれど、たわいもない会話をしていた気がする。また部屋を汚しやがってとか、お前の世話をする俺の身にもなれ、とかそんな話。睨みつけてくるけれど、結局最後には笑っていた。そんな彼を見て、やっと帰ってきてくれたと思ったのに。目覚めて見えたのは隣に誰もいないベッド。弄っても体温などなく、少し冷たい。はあ、とまた大きく溜息を吐いた。もう、彼は帰ってこない。分かりきっているのに期待してしまう自分が居る。合理主義を絵に描いたようなミツギでも、諦めきれないほどには彼を愛していた。島で彼を選んだ時から――、彼のことだけが好きだった。不意に立ち上がり、一人分の温もりしか残さない、冷たいベッドを後にした。
 現場では親方と職人が話していて、自分もここはどうだとか、あそこはどうなんだとか話している。沢から歩いて十五分のところの、坂の上に旅館を作る。言ってしまえばありきたりな仕事だった。でも自治体にとっては重要な建築物で、それだけに期待は大きかったが、建築士になってから色々な建築に携わってきたミツギにとっては、そこまで気負うほどのものではなかった。高級感のある旅館を作るというコンセプトがあって、そのために用意した建築意匠設計士までいるらしい。親方がそのデザイナーを連れて来たので、挨拶をする。これからのことをそのデザイナーと話していると、親方が後ろに控えていた人物に声をかけた。
「悪いね、現場に居たのに呼び出しちゃって。送ってきてくれて、ありがとうね、アヅマくん」
(……アヅマ?)
デザイナーと話しているが、自然と耳がそちらに傾いてしまう。
「いえ、大丈夫です、これくらい」
「本当は直帰のはずだったよね。帰っていいよ」
「はい。お疲れ様でした」
振り返ってその人物を見ようとしたが、すでに後ろ姿で。少し短い黒髪。地味な作業服の後ろ姿は遠ざかっていく。僅かの違和感を感じたが、今は仕事だ。集中しなければ。彼の後ろ姿を頭から振り払った。
 あれからアヅマという人物は見たことがなかった。事務所でも現場でも。入れ違いになっているのか、見たことがない。ミツギの出張も終わりかけで、どうしても親方が送別会をしたいということで、することになった。短い間だったが一緒に仕事をしたということで、みんな名残惜しんでくれている。気のいい職人がミツギのコップにビールを注いでくる。みんな酒を飲む口実が欲しいだけなのか、社長も含めてベロベロだった。
「やっぱり都会の一級建築士ってのは違うなあ!」
「そうですか?」
「なんつうか、センスが違うっていうのかな……。あ、うちの建築士ども貶してるわけじゃねえんだけどよ! ガハハハ!」
何が面白いのか、ミツギの背中をバンバン叩いてくる。
(酔うと笑い上戸になるタイプか……。めんどくせえ……)
「お! 来た来た! うちの二級建築士! おーい、アヅマ!」
(……え?)
少し草臥れた作業服を着た人物がこちらに向かって、澱みなく歩き、軽く会釈しながら、こちらに近づいてくる。
「アヅマはうちの期待の星でね。高卒上がりでうちで実務経験積んで、二級建築士になったっつう、なかなかの苦労人なんだが。……あれ? そういえばどっかの建築事務所からの紹介だって聞いたな」
その人物は眼鏡をかけた少し短い黒髪の青年で、ミツギよりも少し歳下といった風体だった。――ミツギが探し続けた、アヅマその人だった。記憶にあるよりも歳を取っていたが、アヅマだった。
「何すか、みんなベロベロじゃないですか」
「いやあ、みんなミツギさんが居なくなっちまうって、寂しくなるなあって飲んでたら、この有り様だ」
「……ミツギさん? ……ああ、東京から来てるっつう、一級建築士さんですか」
初めて彼がこちらを見た。眼鏡越しに目が合う。確かに目が合って、向こうも自分がミツギであると分かったはずなのに、何の動揺もした様子はなく、無愛想にお辞儀した。
「初めまして、アヅマです」
「おいおい、無愛想だなあ。そんなんだから、いつまで経っても彼女の一人や二人出来ねえんだぞ」
アヅマは困ったように眉を下げた。
「彼女が二人も居たら大事っすよ」
「……まったく、イケメンが勿体ねえよなあ。いつまで昔の彼女引き摺ってんだ」
アヅマの頬がぴくりと、微かにけれど確かに動いた。
「こいつ、昔の彼女とお揃いだっつう指輪をいまだに付けてんですよ。右手の薬指に」
チラリと見たが、右手の指は左手で覆われていて見えない。
「……俺のことはいいんすよ。で、プロジェクトに加わってない俺がどうして呼び出されたんです?」
「お前、そりゃあ、ミツギさんを送ってもらうために決まってんじゃねえか。俺たちはこの通り、出来あがっちまってるから、車運転出来ねえし」
何の感情も浮かんでいないような目でアヅマがミツギを見やる。視線を戻した。
「…………俺がですか」
「悪いけど頼まれてくれ。ここからじゃミツギさんのホテル、一時間かかんだよ」
「そうなんだよお、アヅマくん、頼まれてくれないかなあ?」
いつから聞いていたのか、親方がミツギの後ろから顔を出して、アヅマに手を合わせていた。アヅマは呆れたように溜息を吐いた。無愛想な表情に少しだけ笑みを浮かべた。
「仕方ないっすね。いいですよ。お客さん、一時間も歩かせるわけにはいかねえし」
「ほんとお? ありがとうねえ、アヅマくん」
アヅマがちらりと横目でミツギを見る。
「ミツギさん、もう出ますか?」
「……ああ」
「じゃあ、送って来ます」
「頼むねえ」
酒瓶を抱えて寝ている奴、ミツギに手を振る奴、様々な人間に見送られて、二人は店を出た。店の前に停められていた軽乗用車にアヅマが乗り込む。倣うように助手席に乗り込んだ。二人を乗せた車は、ホテルに向かっていった。
 その頃、社長はふと思い出したことがあった。
「……あ」
「どうしたんですか、社長」
「……いや、そういえば、思い出したことがあって、ちょっとマズイかなって思い始めてきた……」
社長は酒の飲み過ぎか、他にも何かあるのか頭を押さえた。職人は不思議そうに親方を眺めた。
「何がです?」
「アヅマくんって、ミツギさんのところの会社の社長から紹介された子なんだよ」
「……えっ! そうなんですか?」
「……もともとは今回のプロジェクトのお役人さんの伝手でうちにって来た子だからそのことをすっかり忘れてたんだけど……。何か彼っていかにも訳アリって感じでしょ? あんまり多くは聞いてないんだけど、向こうの会社でトラブったんじゃないかなって思ってたんだよ。うちで雇うのも正直様子見って感じで、トラブル起こしたらすぐ辞めてもらうつもりだったけど、普通に真面目に働いてくれるもんだからさっぱり忘れてた……。マズったかな……」
 夜の道を誰ともすれ違うことなく、車は走る。ライトだけが行く先を照らしている。意を決して、ミツギは口を開いた。
「……お前、アヅマだろ」
「……はい、アヅマですけど……」
何でもないような口調で、答えが返ってきて、苛立つ。
「そうじゃねえ! てめえ、俺の恋人だったアヅマだろっつってんだ!」
「へ? ミツギさんと俺、初対面だと思いますけど」
何とも思っていないような口調だった。本当に初対面の人間にするような。
「ふざけてんじゃねえぞ」
「……はあ? そっちこそ、何なんですか? ミツギさん、どなたかとお間違えじゃないですか?」
嘲笑とも取れるような声色でアヅマが言う。そんな彼に、さらに苛立ちは募り、隣で運転している彼の胸ぐらを掴んだ。
「ちょっ! 危ないんですけど! 運転中ですよ?!」
「うるせえ!」
彼が急ブレーキを踏んだ。それをいいことに、両手で作業着の襟ぐりを掴み、グイと自分の顔に寄せる。
「この俺の顔を忘れたとは言わせねえぞ」
「はあ、……だから俺とあんたは初対面だって……」
無理矢理掴んだ作業着の下で光るものが目に入った。思わず、手を突っ込んだ。
「なっ、何を……!」
「……これ」
チェーンにぶら下がっている、一つの指輪。見覚えがあった。
「俺がやったやつだろ」
「……ふん、何を言ってるんですか。これは昔恋人にもらったもので、あんたとは関係ないですよ。例え、あんたが昔恋人にやったやつと同じだったとしても、同じブランドで買えば同じものが買えるでしょ」
ミツギは懐に手を入れて、あるものを取り出す。それはアヅマの指輪の片割れ、ミツギの指輪だった。ルームランプを付けて、そして二つをぴたりと合わせた。意匠が一つになり、模様が出来た。ライトに照らされて、その模様はキラキラと輝いていた。
「……あ」
「お前、分かってなかったみてえだが、これ、俺がデザインしたやつなんだよ。これと同じもんは世界に二つとねえ」
抵抗することを諦めたように、彼は首からガクリと項垂れた。ミツギは指輪の内側を見た。見づらかったが、確かに『Dear A,From M』と刻印されていた。掴んでいた襟ぐりを開放する。
「……なあ、アヅマ。何で居なくなった?」
「……………………」
彼は答えなかった。徐ろに前を向き、車を走らせた。どれだけ言葉を募っても何も答えないアヅマの横顔を見た。無表情というより、すべての感情が抜け落ちてしまったかのような、そして悲壮感のようなものを湛えていた。
「お前、運転出来るようになったんだな。昔は免許持ってなかったのに」
「…………」
ミツギは自分の指輪をルームランプに翳しながら見た。これをアヅマに贈った時のことを思い出した。その日は普通に二人で夕食を食べて、ソファで二人並んでテレビを眺めていた。
『……その、アヅマ』
『ん、何?』
テレビをボケーッとぼんやりとした表情で見ていたアヅマが振り返った。ミツギはらしくもなく緊張していた。その緊張が伝わったのか、アヅマの顔が強張った。
『何か、悪いことでもあった?』
『いや、ちげえ。そうじゃねえんだが……』
ミツギはポケットからベルベットで出来た小箱を取り出した。アヅマは不思議そうに眺めている。
『何それ?』
『おい、ここまでくりゃ、普通分かんだろうが』
『いや、マジで分からん』
呆れたように息を吐いたミツギがアヅマにそれを押し付けた。
『やる』
『へ? くれんの?』
小箱を開けると、二つの指輪が並んでいた。
『指輪……? 何で指輪……?』
『てめえ、ペアリングも知らないとか抜かすんじゃねえぞ』
『ペアリング…………。ペアリング?!』
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でアヅマが叫んだ。
『うるせえ。要るのか、要らねえのか、ハッキリしろ』
『要る! 要ります!』
ミツギに取り返されまいと、小箱を胸に抱えた。そんなアヅマにミツギはふっと笑い、ちょいちょいと手を動かした。
『貸してみろ』
アヅマがおずおずと渡すとミツギは小箱から二つのうち一つを手に取り、もう片方の手をアヅマに差し出した。
『手を出せ』
アヅマが右手を出すと、舌打ちをした。
『違げえ。反対』
左手を差し出すと恭しく手を取り、薬指に指輪を嵌めた。アヅマは不思議なものを見るように、左手を照明に翳した。
『ぴったりじゃん』
『お前が寝てる間に測ったからな』
『お前、そんなことしてたの?』
夜、ベッドで寝ているアヅマの指のサイズをこっそりと測っていた。
『何で、これくれんの? 何か記念日とかあったっけ?』
二人は付き合うとか付き合わないとかそういう言葉によって生まれた関係ではないので、特に記念日というものはないのだけれど。
『この前、あの島を脱出してから一年経っただろ? ……まあ、付き合って、一年みたいな……』
ポカンとミツギを見たアヅマの顔がだんだん赤みを帯びていく。
『お前でも、そんなこと考えんのね』
『悪りいか』
不機嫌になりそうなミツギを宥めるように、アヅマは言った。
『いやいや、悪くはないけど。……そっか、もう一年かあ』
アヅマが小箱からもう一つの指輪を取り、ミツギに差し出した。
『もう片方は俺が嵌めてやるよ』
『おう』
ミツギが当然のように左手を出してきたので、それにもアヅマは何となく照れながら、薬指に嵌める。自分の薬指とミツギの薬指を見比べながら、嬉しそうにアヅマは笑った。
『ありがと。一生大事にする』
『一生とか大袈裟だな。……まあ、喜んでくれたなら、嬉しいけどよ』
あの時のアヅマの瞳にはうっすらと涙さえ、滲んでいた。
 車がホテルの前に着いた。
「着いたよ」
「……」
ミツギは腕を組んだまま、降りようとしない。アヅマの視線がこちらに向く。
「降りて」
「……………………」
アヅマが手慣れた仕草で眼鏡を直した。
「てめえともう少し話したい」
「何を?」
怪訝そうな顔でアヅマはミツギを睨んだ。
「てめえが突然居なくなったわけをだよ」
「…………」
不意にアヅマはフロントガラスを見つめたまま、何も答えない。ミツギは乱暴な仕草でドアを開けて車を降りて、運転席のドアをこれまた乱暴に開けて、アヅマの腕を引っ張り引き摺り下ろそうとした。アヅマは抵抗した。
「おい! 何すんだ!」
「埒があかねえから、仕方ねえだろ」
腕を引っ張る力があまりにも強くて、はあ、と大きく溜息を吐いたアヅマは抵抗をやめて、車を降りた。腕を掴んだままミツギはホテルのフロントで鍵を受け取り、そのまま部屋へ向かう。その間もアヅマは何も言わなかった。部屋に入ると、荒れきってめちゃくちゃな様子の部屋に、思わずといったふうに、アヅマが笑みを溢した。
「相変わらず、部屋は汚ねえのね」
「掃除断ってっからな」
「……何で」
「他人が部屋に入るのが嫌だからに決まってんだろ」
何故か困ったようにアヅマは眉を下げた。ようやくミツギが腕を離したので、アヅマは窓際まで向かう。カーテンを開けて、窓の外を眺めていた。ベッドに座ったミツギが再度問うた。
「……何で、俺の前から居なくなった」
「……………………」
「黙ってちゃ分かんねえだろ。何か理由があったんだろ?」
唐突にアヅマがミツギに問い返した。
「離婚したの?」
「は?」
「だって指輪してねえから」
能面でも被っているような、何の感慨もない顔で問うた。ミツギには分からなかった。その問いの意味が。
「離婚なんかしてねえよ。そもそも結婚してねえ」
「……え」
窓から視線を外しこちらを振り向いて、目を丸くして驚愕しているアヅマに、何だか腹が立って頭を掻きむしった。
「てめえと付き合ってんのに、結婚なんかするわけねえだろ!」
怒気の混じった視線でアヅマを見ると、彼は初めて動揺したように、表情を揺るがせた。
「……何で?」
「今、言っただろうが! てめえが居るのに……」
「あの人が言ってたのに」
アヅマの呟きに、ミツギは引っかかるものを覚えた。
「……あの人って誰だ」
「……ミツギの婚約者だって言う人」
「ハア? そんなもん居ねえよ」
「だって! 俺は見た!」
ここにきて初めてアヅマの激情を見た。悲しげに歪んだ顔を。
「見たんだ。お前と女の人が腕を組んで歩いてるとこ」
「はあ? そんなわけ……」
昔を振り返ってみたけれど、そんな覚えはない。
「絶対ミツギだった! 見たことないような顔で優しく笑ってたじゃん! 綺麗な女の人だった……」
「綺麗な、女……?」
記憶の箱をひっくり返して、思い当たる女が一人。
「もしかして、あの女か……」
「ほらな!」
眉を顰めてミツギを詰るアヅマに、呆れて長い溜息を吐いた。
「あのなあ、あの女は取引先の社長のご令嬢で、俺とはなんの…………」
「それも知ってる。あの|女《ひと》は自分はミツギのとこの会社の取引先の社長の娘で、自分とミツギが結婚したら、繋がりが強固になって会社も安泰だし、出世も出来るし、私みたいな女の人と結婚できたら彼も幸せなはずよって、言ってた」
あの女のその自信はどこから来るんだ。しかし、とうの昔に終わった話だ。
「あのなあ、俺はあの女に付き纏われて迷惑してたんだ。会社から正式に抗議もした。取引を止めたら向こうだって困る。だからしばらくしたら付き纏いはなくなった」
「……じゃあ、何で家に上げたんだよ」
ミツギの指がぴくりと動いた。それを咎めるようにアヅマが声を低くした。
「お前、あの|女《ひと》を家に上げたよな? 他人が家に入るのを嫌がるお前が」
「……それは、あいつが家にまで来やがって、入れてくれなきゃ泣いて喚くってうるせえから」
「……へえ? それで部屋まで綺麗にしてもらって、メシまで作ってもらったんだ。それも一度や二度じゃねえよな?」
「俺の部屋を見て、引いて帰ってくれりゃいいと思ったんだが、あの女思ったより図太くて、勝手に触んなっつってんのに部屋の片付けまでして、料理作って帰ってった。訳わかんねえやつだった。だけど、それだけだ」
アヅマは眼鏡越しに冷たい目でミツギを見た。
「俺が久しぶりにお前んちに行って、初めてあんなに綺麗な部屋見たよ。冷蔵庫見たら綺麗に料理がタッパーに詰められてて。そしたらインターフォンが鳴って、見たら女の人が立ってた。いつか見たお前と腕組んでた女の人だった」
「……はあ?」
初耳だった。あの女はミツギが居る時間を狙って、部屋に突撃してきていたはずだった。何でミツギの居ない時に来る? アヅマは胸の中身を見せるように、言葉を続けた。

『初めまして、貴方がアヅマさんよね? とりあえず中に入れてくださる?』
『何で……俺のこと……』
『それは中に入れてくれたら、教えるわ』
オートロックを開けると慣れた様子で中に入っていくのが、モニターから見えた。もう一度、インターフォンが鳴って、ドアを開けると優美な笑顔を湛えて、女が立っていた。アヅマが何かを言う前に、猫のようにするりと部屋へ入っていく。音もなく中へ入っていくと、自分の城かのようにキッチンに立ち、インスタントコーヒーを淹れている。二人分。
『ちょっ! 勝手に、触らないで……』
その女は自分が主人であるかのように振る舞い、アヅマという客人にコーヒーを出した。
『はい、どうぞ』
苛立ったが、女に手を出すわけにもいかず、堪えた。
『……何で、俺のこと知ってんすか』
『ふふ。ミツギさんの身辺をね、一応調べてたら、貴方がうろちょろしてるのが分かったの。……貴方、男のくせに、ミツギさんに迷惑かけてて恥ずかしくないの?』
アヅマはカッとなった。初対面でこんな侮辱を受けたのは初めてだった。
『別に、迷惑なんて……!』
『かけてるじゃない。定職にも就かず、フリーターで、フラフラ。ミツギさんがお忙しいから、家事をやってあげてることだけは褒めてあげるわ。でもそれって貴方じゃなくても、出来ることよね? ほら、見たでしょう、私なら貴方がやるよりももっと完璧に家事が出来るし、あの人のことを支えてあげられるわ。それに若いだけが取り柄で、結婚もできない、子供も産めない貴方に何が出来るのかしら?』
『……っ』
女は蛇が獲物に狙いを定めるかのように、瞳を三日月のようにしならせた。
『あの人は私と結婚するのよ。私、ミツギさんの会社の取引先の会社の娘なの。私たちが結婚すれば、連帯が強固になって、お互いの会社は安泰だし、ミツギさんも出世するでしょうね。それに、ミツギさんってご家族がいらっしゃらないでしょう。私と結婚したら家庭を持てる。いつかは子供も産まれるわ。正真正銘の家族になれる。貴方は彼の子供が産める? ふふ、そうね、貴方、男だから、産めないわね』
女の言葉が黒い滴となって、アヅマの心に波紋を作った。アヅマは何も言い返せなかった。それは常々、アヅマ自身が思っていたことだったから。確かにそばに居ることはできる。しかし自分ではミツギの家族になれない。子供も作れない。
『貴方とじゃ、あの人は幸せになれないわ。女々しくいつまでもミツギさんにしがみついていないで、自立なさった方がよろしいんじゃなくて? それから……、迷惑だからもう彼の前には現れないで』
コーヒーを飲み干し、その言葉を最後に女は帰り、アヅマはその場に崩れ落ちた。フローリングに冷たい雨が落ちる。アヅマは泣いていた。膝を抱えて、ひたすら声を上げて泣いた。確かに自分は幸せだった。でも、彼の幸せはどうなるのだろう?
(俺と居て、ミツギは幸せなのかな……………………)
そこからのアヅマの行動は早かった。仕事を辞めることを勤め先に申し入れ、ミツギのところの社長にも報告した。せっかく紹介してくれた勤め先を辞めるのだから、不義理はできなかった。
『アヅマくん、本当に辞めるのか』
『はい、すいません。どうしても引っ越さなきゃいけなくて』
社長は心配そうな顔をした。まるで自分の子供を見るかのように。胸が痛かった。
『ミツギと、何かあったのか』
『……いえ、何も。ただ、俺が……、いえ、何でもないです』
アヅマの瞳は昏い海の底のような色をしていた。
『ミツギはこのこと知ってるのか』
『……知りません。俺の独断です』
『そうか……。引っ越して勤め先にあてはあるのか? 建築士の道はどうする?』
『……………………、諦めてはいません。どこか探すつもりです』
『分かった、俺が伝手でどこか建築事務所か工務店を探そう。それから、ミツギにはこのこと、黙っててやる』
ずっと昏い色を湛えていたアヅマの瞳に、一片の光が宿った。
『ありがとうございます……。迷惑ばっかりかけて、すみません』
『全然、迷惑なんかじゃない。元気でな』
アヅマは大きく頭を下げた。それが社長とした最後の会話だった。

 ミツギは呆然として、アヅマの顔を見つめた。アヅマは目を伏せて、口を閉じた。
「あのアマ、なんつうことを……………………」
「俺はどっかで聞いたことがあった。本当に相手を好きなら、その相手がどうしたら幸せになれるかを考えなきゃいけないって。だから……、あの|女《ひと》と結婚するのが、お前の幸せだと思った。だって、あの|女《ひと》が言った通り、俺じゃあ、ミツギの家族になれない。子供だって産んでやれない。家庭を持って子供も作って……、そんな普通の幸せを、お前は手に入れられるのに、俺のそばに居てずっと離れないで居てくれなんて、普通じゃない俺が言っていいはずがない。そんなワガママ…………、言えねえよ……………………」
アヅマの声が震えていた。
「お前には俺が不幸に見えたのか」
「あの時は幸せだったかもしれないけど、いつかは終わりがくるだろ。俺はコトハラさんの墓の前で誓ったんだよ、俺がミツギを幸せにするって。だから俺には、ああするしかできなかった。それが一番の方法だと思ったから」
表面上明るく振る舞っていたけれど、アヅマはいつもどこか不安そうだった。いつか辿り着く終着点を見ていた。だから、その不安を拭い去ってやりたかった。
「俺はもう|他人《ひと》の人生をめちゃくちゃにしたくなかった。だから……、俺は逃げた。お前から逃げて、逃げて、俺のことを知ってる人が居ないところに逃げた。俺は独りで生きて、独りで死ぬのが相応しい、そう思ったから」
「てめえは寂しがりなんだから、独りで生きて独りで死ぬなんて、無理だろ」
アヅマの頭が揺れた。笑っていた。
「お前、バカだよな。あの|女《ひと》と結婚しなくたって、他の人と結婚すれば良かったのに。十年経ってんだ。俺のことなんか、忘れちまえばいいのに。あんな……、あんなもの……、あの指輪、持ってる、なんて…………」
声が揺れて、不安定になっていく。掻きむしるように胸のあたりを掴んでいた。アヅマは乱暴に顔を拭った。その拍子に眼鏡が転げ落ちる。ミツギの足元まで転がっていく。ミツギはそれを拾った。
「それは、お前だって人のこと言えねえじゃねえか。ずっとそれ持ってただろ」
胸の辺りを掴んでいる、その下にはあの指輪がぶら下がっているのだろう。
「これは初めて、大切な人から貰ったものだから……。お前と俺の人生はもう交わらない。だから、唯一、俺の人生で宝物と呼べるものだったから、捨てられなかった」
窓の外で静かに雨が降り出した。それはアヅマの心のようで。ミツギが近付くと、体を震わせて、腕を前に突っ張らせた。
「来んな。お願いだから、来るな……。俺にはもうお前に会わせる顔なんてねえんだよ。俺が幸せに出来る自信がないからって、お前から逃げた俺に、臆病な俺に」
アヅマの言葉が途切れる。ミツギは静かにアヅマを抱き寄せた。強張った体からどんどん力が抜けていく。大好きだった、香水と彼の体臭の混じった匂い。アヅマを安心させてくれた、白檀の香りがした。
「お前を見た時、すぐに分かった。髪の毛の色も、長さも違くても、お前だって。何でって、どうしてミツギがここに居るんだって思った」
ミツギの指がアヅマの頬に触れた時、濡れて指の隙間に流れ落ちていった。
「社長はお前がどこ行ったかなんて、知らねえって言ってた。だから、俺はここにお前が居るなんて知らなかった。だけど、社長が忘れてるわけねえ。何か考えがあったんじゃねえか。しっかし、あのジジイ、俺が聞いた時はさも初めて知りましたみたいな顔して驚いてやがったのに、あのタヌキ」
ミツギの腕の中でアヅマは少し笑った。ミツギの胸を押して、少し距離を取る。穏やかに笑った。彼の頬は涙で濡れていた。
「なあ、ミツギ。俺、お前が幸せになってくれることだけが、俺の希望なんだ。だから、どうか、幸せに生きてくれ。十年も経っちまったけど、俺のことは忘れて、違う人と人生を歩んで欲しい」
首から下げていた指輪を外して、それをミツギに押し付けた。
「これ、俺の宝物にするには上等すぎるんだ。だから返す」
「俺のことばっかり言ってるが、お前はどうするんだよ」
「俺? ……ああ、そうだな。……どうしようかな、ハハ、分かんねえや」
苦笑して、寂しそうな顔をした。遠い目をして窓の外を見やった。過去を振り返るように、歌うように、口遊む。
「俺、それでもいいんだ。あの時が、ほんとうにしあわせだったから……。それだけで、俺は十分だった。俺の身には余るしあわせだった。ありがとう、ミツギ。大好きだったよ、お前のことが。一番幸せにしたい人だった。幸せになって欲しい人だった。俺が人生で唯一、心の底から幸せを願う人だった。そんな人が、俺に出来たってだけで、それだけで、俺は十分しあわせになれた。だからもういいんだ」
いつまでも外を眺めているアヅマの顔を引き寄せて、ミツギは額を合わせて間近に彼の寂しそうな瞳を覗き込んだ。丸くなったアヅマの瞳がミツギを見る。
「過去形にすんな! 俺を幸せにしたいと、本気で思うんなら、俺のそばに居ろ! 俺は……、お前が居ねえと、幸せになれねえんだ……。一緒に楽園作るんだろ?」
「楽園……」
「ああ、約束したじゃねえか。一緒に楽園を作ろうって」
アヅマの指がミツギの眦に触れた。ミツギも涙していた。アヅマは子供を宥めるように、諭すように、言葉を重ねた。
「お前なら、普通の家族を作れるんだ。俺とは作れねえもんなんだよ」
「なら、普通の家族なんて要らない。俺は十年待った。十分考えて、それでもお前が帰ってくるのを待った。俺にはお前が必要なんだ。何で分かんねえんだ」
アヅマが取った距離をミツギが埋める。今度こそ放すまいと、腕に力を入れて、抱き寄せた。
「なあ、ミツギ?」
「うるせえ。俺から離れていかねえって言うまで、離さねえからな」
「本当、頑固だな、お前」
「お前ほどじゃねえ」
ミツギの腕の中で、アヅマは彼の心音を聞いていた。穏やかで、いつまでも聞いていたかった。島を出てから、アヅマは彼の温もりや香りに癒され、安心しきってそばで眠っていたのだ。本当はずっと恋しくて、寂しくて、ずっとずっとそばに居たかった。彼の幸せのためなら、何だってする。たとえ、それで自分が地獄を見ようとも。楽園になど手の届くはずのなかった自分が垣間見た、本物の楽園。それは彼のそばにあった。だから、それだけで良かった。束の間、夢を見れただけで、十分だったのに。どうして。
「どうして、俺じゃなきゃダメなんて言うんだよ。そんなことねえよ、お前ならいい人がきっと」
「てめえ以上に好きなやつなんて、出来ねえんだよ! ずっと! 忘れようとしたこともあった。だけど、お前以上に大切にしたいと思うやつなんて、出来なかった」
ミツギの眼差しがアヅマを捕らえた。目を逸らせなかった。どこまでも星を閉じ込めたような瞳。そんな瞳から零れ落ちる滴が美しくて、小瓶に注いでいつまでも仕舞っておきたかった。不意に唇が重なる。触れ合わせたまま、ミツギが囁いた。
「俺は……、お前が、お前だけが大切なんだよ。分かれよ、クソガキ」
「俺、もう三十三なんだけど。まだクソガキなの?」
「てめえは分かりきってることも分からねえんだから、十分クソガキだよ」
「分かりきってることって、なに? ……んぅ」
ミツギの唇がアヅマのそれを啄んだ。
「俺にはお前しか居ないってことだよ。家族じゃなくても、子供なんて居なくても、お前さえ居てくれれば、俺にとってはそこが楽園なんだ」
押し付けられた指輪からチェーンを外して、アヅマの左手を取り、薬指に嵌めた。そしていつの間に嵌めたのだろうか、ミツギの薬指にも指輪が光っている。左手と左手の指が絡まって、古い木の根のように、結ばれていく。
「……好きだ。愛してる。今までずっと。そしてこれからもずっと」
「俺と居て幸せになれんのか?」
「幸せじゃなかった時なんてねえよ。バカ」
アヅマの少し乾燥した唇が、ミツギの頬に触れた。
「しょっぱい」
「誰のせいだと思ってやがる」
口元を緩めて、アヅマは悪戯っ子のように、密やかに笑った。
「俺のせいだな」
「そうだ、てめえのせいだ」
顔を寄せ合う二人の姿を、窓越しに月が見ていた。

 二度寝から覚めて、いつの間にかこちらに背を向けて寝ているアヅマの背中を、指でなぞった。相変わらず、火傷で肌が引き攣っていて、美しいとは言えないけれど、愛しい背中だった。
「……んー」
もぞりと彼が動いて、寝返りを打って、ミツギの方を向いた。伏せられていた目が次第に開いて、眠たげにミツギを映した。
「……はよ」
「ん」
アヅマの声は掠れていた。アヅマは手を伸ばして、指がミツギの髪で遊んでいる。昔と比べるとかなり短い。いつか写真で見た五分刈りとまではいかないけれど。
「本当、お前もったいねえよな。綺麗な髪なのに」
「アラフォーで、ロン毛ってわけにもいかねえだろ。ハア……、切りに行くのめんどくせえんだよな。それより、お前のあの如何にも野暮ったい眼鏡、どうにかなんねえのか」
きょとんとしたアヅマは、すぐに笑った。
「ああ、アレ? 伊達だから」
「はあ?」
ヘッドボードに置かれていた眼鏡を手に取って、眺めてみたが、確かに度が入っていない。
「何でこんなもん着けてんだ」
「それくらいした方が、印象薄くなって都合が良いんだわ」
(……コイツ、自分の面がいいことを分かってやがる)
呆れたが、本当に顔だけはいいので、仕方ないと納得した。
「今何時?」
「ああ……、六時」
「チェックアウト、何時?」
「十時だな」
アヅマがもぞもぞと動いて、ミツギの腕の中に入ってくる。腕が背中にまわされた。
「……じゃ、もうちっと寝てようぜ。起きるにはまだ早えから。起きたら支度して、近くに朝からやってる定食屋あるからそこで朝飯食って、お前を見送るよ」
「……帰って来ねえのか」
少しだけ寂しそうな声を出してしまった。アヅマは優しく微笑んだ。
「そんなに寂しそうにすんなって。いきなり仕事は辞めらんねえから。でもこっちでのこと色々片付けて、帰るよ。お前のところへ」
アヅマの手がミツギの頬を包んだ。薬指にはあの指輪が光っている。
「そうか。……帰ってきたら、籍入れっか」
「……へ? 籍? 俺たち結婚できねえじゃん」
「結婚じゃねえ。養子縁組だ」
何を言ってるんだコイツ、という視線を受けて、一瞬イラッとしたが、コイツはアホだからな、と心を落ち着かせて、アヅマに説明する。
「結婚出来なくても、養子縁組っつう手もあんだよ。戸籍上親子ってことになるが、法律で認められた正真正銘の家族になれる」
「どっちが親になんの?」
「俺の方が歳上だから俺が親で、お前が子供」
「……なんか、やだ」
不服そうなアヅマの額を小突いた。
「仕方ねえだろうが。歳上の方が親になるって決まってんだよ。子供より歳が下の親なんて、居ねえだろ」
「でもたまに居るじゃん。自分の親より歳上の男と結婚する女の人」
「てめえ、本当アホだな。それは義理だから成り立つんだよ。法律上とはいえ、本物の親子になるんだから、歳上しか親になれねえんだよ、分かったか?」
「……うん」
どこかまだ不満そうなアヅマの髪をくしゃくしゃに掻き回して、頭を抱き締めた。
「ああー、まったく、てめえはよ。ほら、寝ろ。朝飯連れてってくれんだろ?」
「うん。超、美味いから期待してろよ」
「お前の作る飯より、美味いもんあるのか?」
もぞもぞといい位置を探していたアヅマの動きが止まった。突然ミツギの胸をポカポカと叩き出した。
「もー! お前ってやつは! 本当に!」
「なんだ? 痛えな、おい、やめろって」
ミツギの腕の中から飛び出して、くるりと背を向けて丸くなってしまった。
「おい……」
無理矢理振り向かせたアヅマの顔は真っ赤だった。
「なんで、そんなに赤いんだ。熱でもあんのか」
「熱なんかねえよ。……ハア、これだからミツギは」
「ああ? どういう意味だ、てめえ」
「何でもねえよ、おやすみ!」
結局、ミツギの腕の中に戻ってきたアヅマは、そのまま寝入ってしまった。あの言葉の意味がよく分からなかったが、まあ、いい。こうして、愛しい人が自分の腕の中に戻ってきたのだから。楽園は二人で作るもの。今度こそ、楽園みたいな家を建てよう。ミツギもうつらうつらとしながら、確かな感触を抱き締めて、夢を揺蕩った。

あとがきなど
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