Your sorrow is in those eyes.

  先週の休みの日、アヅマと一緒にコトハラさんの墓参りに行った。彼岸の時季だから墓参りをするわけでもなく、割と頻繁に来ている。しかし、ここ最近は仕事が忙しかったこともあって、しばらく顔を出していなかったが、いつも通りに手入れの行き届いた奇麗な墓石だった。
 少し枯れかけている花を花立から抜き取る。あまり掃除に苦労はせず、簡単に水をかけて雑巾で拭き上げるだけに留まる。アヅマが花の準備をしている間に、線香に火を点ける。風が吹いて火を点けるのに苦労していると、アヅマが風から俺をかばうように隣に座った。僅かに赤い色が点り、やがて灰になる。独特のにおいが辺りに漂う。隣のアヅマが柔らかな顔で微笑む。
「お前の匂いがする」
白檀の香りを言っているのだろう。この匂いは、いつも祈りと静謐を呼び起こす。線香に火を点すたびに、俺の胸の内は凪いだ湖のように静かになる。だからだろうか、俺がこの匂いを身に纏うようになったのは。
 線香と花を供えて、手を合わせる。顔を上げて、すぐそばにある気配に視線をやると、ガキは俺以上に熱心に手を合わせていた。こういうところが、アヅマという人間と共にあって悪くないと思える所以だった。アヅマがこんなにも他人のことを思い遣れるヤツだと分かっている。だから、いつも疑問に思っていて、けれどどうしても聞きづらかったことを、思い切って聞いてみることにした。
「アヅマ」
「ん? 何?」
顔を上げたヤツが不思議そうに俺を見る。その瞳は柔らかく、静かだった。
「てめえは結構な頻度で俺の墓参りに付き合ってくれるけども、俺はお前ん家の墓参りにいったことがねえ。……一度くれえ、挨拶に行きてえんだけど」
そう言葉にした途端に、アヅマの瞳の色が濁る。穏やかだった瞳からは光が消えて、動揺と嫌悪が一瞬その眼球を通り抜けていった。アヅマはそれらを顔色に出すこともなく、困ったように笑った。
「……そっか。けど、ごめん。俺、墓の場所知らねえんだ」
「なんか書類とか残ってねえのか」
アヅマが遠い目をして、コトハラさんの墓石を見つめる。
「どうだったか……。家族が死んだとき新しく墓を作った……、のかなあ……、そうだとしてもどこに作ったかは覚えてねえし、書類ももしかしたら施設を出るときにもらったかもしんねえけど、多分持ってない」
推測に過ぎないが、それは捨てたという意味だろう。コイツが亡くなった自分の家族について話すことはない。それは徹底して、自らの家族に関する話題を避ける。だから俺も訊ねることはなかった。けれどアヅマが、家族に複雑な思いを持っていることくらいは察せられる。そして一般的な養育環境になかったことも。あの背中がそれを物語っている。
 アヅマが申し訳なく思うことがないように、話題を変える。
「いや、分かんねえならいい。ちょっと聞いてみただけだから」
「……そう?」
少し俺の顔色を窺うように、そして恐々とアヅマがこちらを見た。その顔を見て、この話をしたことを後悔した。ほんの少し、家族に関することを聞いただけで怯える。おそらくだが、本人にはこの態度を取っている自覚はない。本当にそれは無意識に、アヅマがいつもであれば隠している素の部分、心の中が露出してしまっている。治っていない傷口を無作法に割り開いてしまったように思えて、胸が痛む。本当に、ただアヅマの家族に挨拶をしたかっただけだ。決して興味本位などではない。アヅマにどれほどの仕打ちをしたのか、その家族が亡くなっている今は本人にしか分からない。けれど、アヅマをこの世に産み出してくれたから、コイツに世話になっている人間として一度くらい墓前に参じたいと思った。だが、その大切なお前を傷付けてまでしたいことじゃないし、するべきことでもない。
 空気を変えるように立ち上がる。
「帰るぞ」
「うん」
アヅマは行きのときのように俺の隣を歩くこともなく、後ろをトボトボと距離を開けて歩いていた。それは俺たちの心の距離を視覚化しているようだった。

 夜中に目を覚まして、隣に横たわる影に顔を向ける。ヤツは俺に背を向けて身体を丸め、そして小さく唸り声を上げていた。――また、魘されている。ここ最近、アヅマが魘されるようになった。出会ったころ、初めて同じ部屋で眠ったときにそうだったように、アヅマは夜になると魘されていた。一緒に暮らすようになってから、このようなことはほとんどなかった。以前のように魘されるようになったのは、俺と墓参りに行ってから。――明らかに、アヅマの家の墓のことを聞いたせいだった。聞かれたことが余程ストレスになってしまったらしく、収まっていた悪夢を見るようになったようだ。
(……聞くんじゃなかった)
寝乱れた髪の毛を乱雑に掻く。俺としては筋を通しておきたかっただけだが、通さねばならない筋とそうしなくともいいものが、この世にはある。こんなにアヅマが苦しむくらいなら、そんなもの捨ててしまえ。
 こんなに暖かい布団の中にあって、寒さを感じているかのようにアヅマが震え始めた。歯の根が合わないのかエナメル質がカチカチと音を鳴らしている。喉から絞り出すように嗚咽もするようになった。どうしても放っておけなくて、震えるその背を抱き締める。ぎゅうと強く抱き寄せると、少しだけ身体の震えが小さくなる。もう二度と寒さなど感じないように、決してひとりではないと思ってくれるように、体温を分け合いたくてただ黙って抱いていた。

 用事があるからと一人で出かけて行ったアヅマが、かなり動揺した様子で帰って来た日があった。帰宅後、いつもならしないミスをしていた。――皿を落として割ったり、ぼうっとしていたらしく指を包丁で深々と切ったりした――。どう考えても普通の状態には見えなくて、何かあったのかと訊ねても頑なに言葉にしようとしない。しばらくの間、起きているときは暗い顔で何か考え事をして、夜になって眠るときには魘される、そんな日々をアヅマは送っていたと思う。俺はそんな顔をする理由について深く追及することが出来ずに、見ていることしか出来なかった。
 ある日、夕食後にアヅマは強張った顔で言った。――自分の家の代々の墓が見つかった、と。俺はアヅマが墓を探していたことに驚いた。夢見が悪くなるほどストレスに感じていることを、敢えてすることはないと思っていたからだ。悲愴さを湛えた決意の表情で、アヅマが俺を見ていた。
「……、俺、うちの墓に行ってみようと思う」
それを言葉にすることにさえ勇気が要ったのだろう、微かに震えていた。テーブルの上に置かれた指でさえ、哀れなほどに動揺を隠せていない。
「無理しなくてもいいんじゃねえのか」
「ううん、平気。思ったんだよ。俺も自分のことに向き合わなきゃなって。だから、行ってくる」
無理矢理に明るさを装って、アヅマが口元を歪めた。
(全然笑えてねえじゃねえかよ……。どこが大丈夫なんだ)
一人で行かせたら、きっといいことにはならない。そんな想像が俺の頸をざわつかせる。
「俺も行く」
「へ?」
俺の言葉が予想の範疇外だったらしく、鳩が豆鉄砲を食ったようになった。
「墓があるとこなんて、大体が行きづれえとこにあんだ。俺が送って行ってやる」
お前が心配だから、とは敢えて言わなかった。そんなことを言ってしまえば、アヅマは絶対に固辞するだろう。何も言わずに、ひとりでフラッと出かけてしまうかもしれない。それだけはどうしても阻止したかった。困惑しているアヅマに畳みかける。
「どうせ荷物も多くなる。足はあった方がいい」
目の前のふわふわの髪の毛が揺れて、逡巡している。明白に、どうやって俺を説得して一人で行こうか、悩んでいる。
「俺も行く。分かったな」
強引だが、二回目の宣言をする。アヅマは渋々首を縦に動かした。

 アヅマの墓参り当日、今まで見たことがないくらいの暗い顔で朝食を食べていた。けれど箸も進まないようで、僅かに食べたものでさえも、慌ててトイレに駆け込むような有様だった。アヅマはうっそりと独り言のように呟く。
「大丈夫、大丈夫だから」
それは自分に言い聞かせるような言葉だった。
 高速に乗って数時間、ひっそりとした人里離れた場所に佇む寺にそれは在った。向かっている間、アヅマは一言も発さないで後部座席に座っていた。ミラー越しに様子を見れば、目を伏せがちに手をぎゅっと握り締めていたのが印象的だった。
 アヅマは、覚えていないと言っていたのに、今までの様子が嘘だったように確かな足取りで奥へ進んでいく。幾つも並ぶ墓石のうちの一つの前で立ち止まる。苔生して何年も手入れされていないと見える古びた墓標には『アヅマ家代々之墓』と刻まれていた。アヅマはそれをなんの感情もなく見つめていたかと思うと、持っていたバケツに入っていた水をいきなり無遠慮に浴びせかけた。
「ちょ、おい……」
打ち水でもしているような勢いで、バシャバシャとかけている。そうしているアヅマの顔には少しの感情もなく、ただ汚れているからそうしているだけとでも言いたげな、どうでも良さそうな目をしていた。水をかけ終わると、乾いた雑巾でひたすら磨く。ミツギが止めるまで、何時間もそうしていた。
 墓石の前で屈みこんだアヅマがぼそりと言う。
「この墓には、あのアヅマキョウジュロウもいるんだって」
「へえ……」
あの島での陰惨な事件が起きるキッカケになった小隊を率いていたというアヅマの先祖。しばらく二人で少しは奇麗になったその石を眺めていた。
 日が傾き始め、オレンジ色の光がアヅマの顔に影を作る。逆光でどんな顔をしているのか読み取ることも出来ない。硬い声が耳に届く。
「弟も、ここにいる」
弟が『いた』のは初耳だった。何くれとなく俺の世話を焼くアヅマの面倒見の良さは、弟を持っていたことに由来するのだろうか。弟のことを口にしたアヅマの声には感情があった。僅かに、本当に僅かに悲しみが滲んでいた。
「……弟は楽園に行きたがってた」
「楽園?」
「そう。親父にもお袋にも『躾』されない、楽園。大人になったら家を出て、お前を楽園に連れて行くって約束したのに、破っちまった」
『躾』というワードが引っかかる。島で魘されていたアヅマが一度同じことを言っていた。
「……『躾』ってなんだ」
「機嫌が悪いと……、いや悪くなくてもだったか……。親父とかお袋がそのときの気分で殴ったり、食事抜いたりすることを『躾』って言ってた」
それが真実であると、アヅマの声から感じ取れる。ただ、事実を述べているのだと、それにはどのような感情も浮かんでいなかった。それが俺にとってはショックだった。
「……もしかして、背中の火傷も?」
「ああ、アレ? そうだよ。親父にライターの油かけられて焼かれた」
自分の子供にそんなことをする親が実在したことに打ちのめされる。思わず頭を抱えた。
「どしたの、ミツギ、具合でも悪りいの?」
近寄って来たアヅマを掻き抱いた。
「具合が悪りいのはてめえの方だろ! 朝からずっと調子悪そうにしてたくせに、意地だけでここまで無理しやがって」
どのような憐憫も同情も、アヅマにかける言葉に相応しいとは思えなかった。なんて言えばいいのか分からなくて、八つ当たりみたいに腕の中の温もりを強く抱き締める。
「苦しいって、ミツギ」
「うるせえ」
こわごわとアヅマの手のひらが俺の髪の毛を撫でる。――どうして俺が慰められているんだ。
 こんなにも胸が苦しいのに、アヅマのそれと比べてしまえば遙かに安っぽい憐れみになってしまう。こんな感情は、ただの憐れみも悲しみも同情もそぐわない。この温かさが、ここまで生きていてくれた喜びを感じる。しかし彼の両親への怒りも同時にあった。アヅマが失ったものの大きさを思うと、どれほど言葉を尽くしても足りない。この感情を口にすることが難しくて、ただアヅマを抱き締めた。
「……俺さ、だんだん思うようになったんだ。俺が幸せでいいのかなって。お前と一緒にいて、楽しかったり嬉しかったりして、幸せな気分に浸ると、弟の顔が過ぎるんだ。アイツはどんな幸せも知らないで死んだのに、弟との約束を破った俺が、幸せになってもいいのか不安になる。楽園に連れて行くって約束破っちまったのに……」
「……お前が破ったわけじゃ」
「破ったんだよ! 俺がアイツを殺しちまったから!」
一瞬理解が追い付かなかった。――アヅマが弟を殺した?
「親父が言ったんだ……。殺したら生かしておいてやるって。俺は迷わなかった。少しも躊躇わないで、アイツを……」
夕日が落ちて、夜の帳が下りる。薄暗闇に浮かぶアヅマの顔はほんとうのガキのように、くしゃくしゃに歪んで今にも泣きだしそうだった。
 この子供の、心の最奥にある悲しみは、それが理由だったのか――。初めて、何もかもが腑に落ちた。墓参りに行くと言い出してから、アヅマの顔にあったのはいつも罪悪感だった。罪への恐れが、アヅマを苦しめていたのだろう。笑っているのに、いつもどこか憂いがあったのも、振舞いから感じるいつまでも幸せでいられるわけがないという諦めは、弟を手にかけて得た人生への罪の意識だった。――俺は、殊更アヅマを強く抱き締めた。
「……俺は、アイツを殺しても、なんとも思わなかった。自分が生き残るためになんの躊躇いもなく、首を絞めた。そしたら、俺が弟を殺したことに、両親が焦って山に埋めに行って、そのときに事故って死んだ。ざまあみろって思った。両親が死んで、心から清々した。だから、弟を殺したことに後悔も罪の意識もなんにも、なかったんだよ」
そこで言葉を止めたアヅマは腕の中で震えていた。
「けど、大人になるにつれて、罪の意識だけが生まれるようになった。後悔なんてしてないけど、アイツを殺したことだけが自分の中で重くなっていった。……でもさ、後悔もするようになった、本当に今更だけど。それは、お前に出会ったからだよ」
アヅマは俺の頬に触れて撫でた。まるで、かつての弟にしていたような、優しさで。
「ミツギが本当に優しいひとだから、家族を大切にするから。それを考えると俺ってやっぱりおかしいヤツなんだって、思わされるんだ。普通じゃねえって思えば思うほど、こんな俺が幸せなんて感じていいのかなって……。そうしたら弟のことが思い浮かぶようになった。弟はまだ子供だったのに、俺のせいで死んだ。少しの楽しみも幸せも知らないで、誰かの優しさに触れることもないで、死んじまった。……俺は、お前のおかげでやっと知れたのに」
アヅマは涙を湛えて微笑んだ。眦からはらりはらりと滴が零れ落ちていく。月の光を反射したそれに思わず見惚れた。
「弟にも知ってほしかったって思うようになったんだ。世の中、捨てたもんじゃねえよって、お前にもいつか本当に大切に思えるひとができるって。……でも、そんなこと言えねえんだよ、何もかもが遅すぎる。だって俺が……、俺が……」
とうとう顔を覆って慟哭する。そんなアヅマに言い聞かせるように、俺は自分の気持ちを事実として述べる。
「アヅマ、それを聞いても俺の気持ちは変わんねえ。好きだ」
「……なんで」
柔らかな髪の毛を、子供にするように何度も撫でる。俺のこの気持ちが、アヅマを誰よりも想う心が伝わるように。信じられないものでも見るように、アヅマが目を見開いた。確かに、普段の俺であれば、殺人をした人間とは一緒にはいられないと思うだろう。けれど、それで片付けられるほど共に過ごした時間は短くもなく、アヅマの罪を意識するよりもこの震える肩を慰めて、どうかその磨り減った心が癒されるようにと願ってしまう。
「俺、許されてえって思っちまってる。自分のためにアイツを殺したのに、自分勝手に許されてえって思ってんだ。……許してくれる弟はもうこの世にいねえのに」
――やっと、俺に心の中を見せてくれた。どれほど、付き合いが長くなっても見えなかった、アヅマの心の柔らかな部分。そのすべてをひっくるめて抱き締めた。
「罪は雪がれるものだ、いつかは。てめえは弟の分まで懸命に生きろ。それが唯一出来る贖罪になる」
「俺、生きてて、いいの……?」
ぎゅうと、アヅマが俺に強くしがみつく。どこにも行かないで、と泣いて叫ぶように。
「俺も、お前と生きるから。一緒に生きてくれ」

 アヅマは憑き物が落ちたような少しだけ落ち着いた顔で、最後に墓石を見ていた。少しだけ、彼の弟の話をしてくれた。そのときのアヅマの顔は穏やかで、弟を想う兄の顔をしていた。俺には兄弟はないから、実際のところは分からないけれど、きっとそうなんだろうと思う。
 ――ずっとお前の苦しみに気付いてやれなくて、悪かった。けれど、これからもお前のそばにいるから。ずっとそばにいるから。だからどうか、その罪をお前だけで背負わないでほしい。俺が肩を貸そう。お前が重さで苦しまないように。――アヅマ、どうか俺のそばにいてくれないか。

 
あとがきなど
お彼岸だったのでお墓参りに行くお話です
アヅマくんの家のお墓ってどうしてるんだろうなあって思って書いてみました
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