White Day 2024
アヅマには頭を悩ませていることがあった。それは数週間後に迫る『ホワイトデー」』、いわゆる『ヴァレンタインデーで恋人に贈り物をされたら何かをお返しする日』である。残念ながら今年のヴァレンタインは、何かを贈ることができなかった。毎年チョコレートだったり少し手の込んだ食事をミツギにプレゼントするのだけれど、ちょうどその頃仕事が忙しくて考える余裕がなく、気付いたらとっくに二月十四日を過ぎていて、機会を失った。昔にコンビニでアルバイトしていた頃は、嫌でもそういったイベント事に敏感にならざるを得なかった。コンビニに限らないとは思うが、ああいった小売業やサービス業というものは、何かしらのイベントがあるたびにそのイベントのための商品であったり、店舗があればそのイベント仕様の飾り付けなどをして、盛り上げて販売促進しようとする。そしてアヅマの古巣であったコンビニもその例に漏れなかった。だから嫌でもヴァレンタインやクリスマスなどの、恋人たちのイベントにも関わらなければならなかった。独り身であった頃にはウンザリするばかりであったそのようなイベントも、ミツギという恋人が出来てからは楽しむ気持ちも生まれるようになった。その気持ちは恋人がいるという余裕とか優越感から生まれたものではなく、何気ない一瞬一瞬の日々を楽しい思い出で彩りたいというアヅマなりの喜びや楽しみなのであって、それは自己満足に近い。何かお返しを期待したりとかそういうつもりは毛頭なくて、ただ自分がやりたいからやることに、ミツギに付き合ってもらっているという認識である。けれど、ミツギは根がやはり真面目というか律儀なところもあって、アヅマがやりたくてやっていることのそのたびに、何かしらお返しをくれるような優しい恋人だった。そのような経緯があるから、イベント事などはアヅマが主体でしているので、アヅマがスルーすればそのイベントはないのである。だから今年のヴァレンタインのことが頭からすっぽ抜けていたときには、ミツギからの催促とかもなかったものだから、そのまま忘れてしまっていた。つまらないとか下らないとか思っていたイベントを一緒に楽しみたいと思えるような恋人がいて、それなのにそれをスルーするなんて惜しいと思っているから、今年のヴァレンタインデーを忘れてしまったなんてことはアヅマにとっては大失態に近い。毎年恒例になっていただけに、なんとなく悔しさが残る。例年であればヴァレンタインデーはアヅマが、ホワイトデーはミツギが何かをする日だったので、ミツギとの関係が構築されてからはホワイトデーに何かするなんて考えたことが一度もなくて、何年も離れていた『ホワイトデー』という行事に何をしたらいいのか分からずに途方に暮れていた。チョコレート菓子はハズレではないかもしれないけれど、なんとなくもう季節外れ感がある気がしてしまう。仕方ないので、スマホで検索してみる。
「お?」
適当に三月十四日を検索して、目に入ったのは『パイの日』という単語であった。円周率にちなんでパイということらしい。日本らしい言葉遊びというか、まあ要は駄洒落である。ふうんと思ってとりあえずパイのレシピを検索する。パイで検索するとアップルパイがたくさん並ぶ。もちろん甘さ控えめのものを見ていって、気になったのが紅玉という種類の林檎を使ったアップルパイだった。紅玉はパイやタルトに加工するのに適していて酸味が強いということだった。これならミツギでも食べられる甘さ控えめのアップルパイになるのではないか。
「よし、これにしよう」
パイなんて作ったことがないから練習は必要かもしれないが、そこまで難しいものでもないだろう。材料の分量を間違えない限りは。とりあえず、今度の休みに試作品を作ろう。ミツギも仕事でいないから、こっそり作るにはちょうどいい。材料や必要なものをメモした。
仕事に行くミツギを見送ってから、買い物へ出かける。まずは百円ショップでパイ皿を買う。繰り返し使えるものか、使い捨てかで悩んだが、結局使い捨ての紙のパイ皿が複数枚入ってるものを購入した。今度はスーパーへ向かう。林檎、冷凍のパイシート、バニラエッセンスを購入する。紅玉がなかったのでとりあえず他の林檎で代用することにした。帰宅して一休みしてから、試作品作りに取り掛かる。冷凍パイシートを常温にするために置いておく。林檎の皮は剥かずに半分に割って、芯をくり抜いて薄くスライス。耐熱皿に林檎・砂糖・バター・レモン汁を入れて、軽くラップをしてレンジで三分加熱して、終わったら冷蔵庫で冷ます。カスタードクリームを作るために、ボウルに薄力粉・砂糖・卵・牛乳・バニラエッセンスを投入しよく混ぜて、レンジで二分三十秒加熱する。レンジから取り出してまたよく混ぜて、再度加熱。加熱し終わったら、これも冷ますために冷蔵庫へ。二人の家にあるのはオーブンレンジなので、ここでオーブンを予熱する。カスタードクリームを混ぜるのに腕が少し疲れたので、予熱している間に若干休憩することにした。余った牛乳をちびちび飲みながら、温まっていくオーブンを眺める。そういえば、と冷蔵庫の中身をチェック。林檎は冷えてきているがカスタードクリームはまだ少し温かい。オーブンの方が先に温まってしまうかも、と思いながら、休憩するときに適当に引っ張ってきた椅子に腰掛ける。不意に時計を見ると、十三時近くになっていて昼を過ぎようとしていた。
「あー、自覚したら腹減ってきた……」
胃の辺りにきゅうと切なさを覚えて摩る。しかしアップルパイが出来なければ、アヅマの昼食はない。アヅマの昼食は証拠隠滅の意味も込めて、アップルパイなのだ。オーブンから音がして、余熱が終わったらしい。もう一度カスタードクリームを確認したが、完全に冷えていなかったのでもうしばらく待つことにした。それからしばらくして、クリームが冷えたことを確認する。常温に戻しておいたパイシートを伸ばして型に入れる。林檎とカスタードクリームを取り出し、カスタードクリームに林檎の煮汁を入れて混ぜて、型に流し込む。薄くスライスした林檎を型に沿って花弁のように並べていく。林檎を重ね終わったらオーブンに入れて焼く。焼き色を見ながら調整して、規定時間になったので取り出して見ると、綺麗なきつね色に焼けていたし、あと綺麗に林檎を並べられたので、それなりに見栄えする花のようなパイになって嬉しい。初めてにしては上手く焼けたのではないだろうか。本来なら冷ますとさらに美味しいらしいのだが、空腹が限界なので冷やさずに食べることにする。パシャリと一枚スマホで写真を撮った。横着してパイ皿から直接切り出して口に運ぶ。
「美味え」
普通の林檎を使ったのでそこそこ甘いけれど、紅玉なら酸味があってもう少しさっぱり食べられるのかもしれない。本番はやはり紅玉を使おう。アヅマは甘いものは嫌いではないので、腹が減っていたせいもあってパクパクと全部食べてしまった。
「……ちょっとカロリーヤバかったかな…………。夕飯はカロリー抑えめにしよう」
換気扇を回してにおい対策をしつつ、後片付けをしながら、夕食は何を作ろうかと思いを馳せた。
ホワイトデーを目前にした休日。ミツギは徹夜明けだったので昼過ぎまでずっと寝ていた。仕事に行く前、若干申し訳なさそうな顔をしていたので、もしかしてどこかへ行こうとか思っていたのかもしれない。仕事なのでこればっかりは仕方がないと、長年一緒に暮らしてきて、諦めとかではなく許容できるようになったことのひとつだ。別に遊びに行ってる訳でもなし、お互い仕事があるのだから、それくらいは理解を示さなければやっていけないのである。寝ていてくれたおかげでアップルパイ作りは捗った。ミツギが起きてくる頃には作り終えて、冷蔵庫で冷やし始めていた。ガンガンに換気扇を回していたら、ミツギが寝ぼけ眼で起きてきた。
「……はよ」
寝起きの掠れた声で、静電気なのか後ろの髪の毛がふわふわになっている。
「おはよ。何、その髪の毛。おっかしい」
手櫛で直してやると、ミツギがアヅマを抱き寄せて肩に顔を埋める。
「クソねみい……。……なんか、甘い匂いしねえか、お前」
「え、気のせいじゃね?」
部屋の匂いには気を付けていたが、服の匂いのことは完全に失念していた。消臭スプレーでも振り撒こうと思って、とりあえずおねむモードのミツギを引き剥がしにかかる。
「まあ、とりあえず顔洗ってこいよ。腹減ったろ? なんか用意してやっから」
仕方がないとでも言いたげな緩慢な動きでアヅマから離れて、洗面所へ向かう後ろ姿を見送ってから、急いで無臭の消臭スプレーを服にかけた。冷蔵庫の中身を物色していると、洗面所から出てくる気配がしたので慌てて冷蔵庫の扉を閉めた。
「お前徹夜明けだし、軽めにしとく?」
「ん」
「おっけ」
寝起きで喉が渇いているだろうとお茶を出しておく。
(雑炊でいっか)
冷凍ご飯と卵を取り出して雑炊に取り掛かる。チラリと背後を見ると、やはりおねむモードは健在らしくソファーに溶けかけている金髪が見えた。
(……大丈夫かな、アイツ)
手に持っているコップが不安である。鍋を火にかけていたのだがそれを止めて、半分寝かかっているミツギの方へ行く。顔を覗くとほとんど目が閉じかかっていて、コップをそっと取り上げる。
「そんなに眠いなら寝な。無理して起きてこなくていいから」
「……」
これは、完全に寝ている。起こすのは可哀想だが、相手は成人男性であって、首根っこ掴んでベッドに運べる訳でもないので、仕方なく起こす。
「おい、ミツギ、起きろ。さすがにここで寝たら風邪引くぞ」
「…………寝てない」
「寝てたろ、というか今も寝てる」
目が開いてないので説得力に欠けている。
「……うるせえ。俺は起きてん、だよ……」
「はいはい」
これは実力行使しかない。ミツギを抱えるようにして立ち上がらせて、寝室に連行する。ベッドに転がすと、寒みいと呟きながら布団に包まっているのが、おかしかった。
(やっぱり寝る気マンマンじゃん)
ベッドの近くに座って、布団から覗くミツギの髪の毛を撫でた。ついでに額に口付ける。
「お疲れさん。おやすみ」
ベッドを離れようとしたら手首を掴まれて驚いて見ると、布団の中から白い手が伸びてきてアヅマのそれを掴んでいた。
「な、ビ、ビックリした! もー、なんだよ、起きんの? メシは食える? 今雑炊作って……」
「……それより、お前を食う」
「へ?」
思ったよりも強い力で腕を引っ張られて、布団の中に引き摺り込まれる。気付くとミツギがアヅマの上に伸し掛かっていた。彼がアヅマの首筋を甘噛みする。
「あ……、ちょ、なに……?」
ミツギの唇が肌に触れるたびに、文句とか他にも言いたいことがあったはずなのに、霧散してしまう。自分の息が上がって、身体も熱くなっていくのを感じた。
「あ……、ミ、ミツギ……」
そういえば、何週間もこんな肌の触れ合いをしていなかったっけ。布団の中へ深く引き摺り込まれて、ミツギにしがみついていることしか出来なくなる。そして夜になるまで二人は寝室から出てこなかった。
夕飯は出前だった。なってしまったのである。着倒して首元が伸びてよれているミツギのスウェットを着たアヅマが不機嫌そうに、ピザを齧っている。実は夕食もホワイトデーらしく少し豪華なお家ディナーにしようと考えていたのに、誰かさんのせいで夜まで寝室から出られなかったし、足腰も立たないので準備どころではなくなった。目の前のミツギは蕎麦を啜っているが、時折窺うようにアヅマの顔を見ている。そんな視線も無視して、ピザを食べていた。このマルゲリータ美味い。ピザと一緒に注文したコーラを口に運ぶ。氷抜きを頼んだのに氷が入っている。炭酸の爽やかさが、拗ねた気持ちを少し和らげてくれる。蕎麦を食べ終わったらしいミツギに、冷蔵庫を指差す。
「冷蔵庫」
「あ?」
「冷蔵庫に箱あるから取ってきて」
なんで俺が? とでも言いたげな視線に、誰のせいで立てないんだと文句を込めて見つめ返すと、ミツギが諦めたように冷蔵庫へ向かう。ついでに包丁もお願いした。
「なんだこれ」
「開けてみ?」
ミツギが箱を開けると、赤が鮮やかな薔薇の花弁を散らしたようなパイが出てきた。以前、アヅマが試作したアップルパイだった。紅玉を使ったことで、赤が美しいパイになったのである。
「もうすぐホワイトデーだろ。だからアップルパイ作ってみた」
「……ヴァレンタインはなんもなかったから、今年はなんもしねえのかと」
「忘れてたの、忙しくて……」
やはりアヅマがヴァレンタインの日に何もしなかったから、今年は何もしないのだと思っていたらしい。
「なんでアップルパイなんだ」
「三月十四日はアップルパイの日らしいから。甘さは控えめにしてるからお前でも食えると思う」
「ふうん」
包丁と一緒に皿とフォークも持って来てもらったので、切り分けてそれぞれの皿に載せる。ミツギが一口分フォークに取って食べるのを固唾を飲んで見守った。
「どう……?」
「ん」
甘いときは甘いと言うし、不味かったらもう少し反応が違うので、及第点といったところか。それに安心してアヅマも食べ始める。ミツギは一切れ食べて腹一杯と言うので、アヅマは二切れ食べて、あとは明日にでも食べることにした。
「……あ、忘れてた」
アヅマは背後を振り返って棚を漁る。普段、ミツギが棚に物を出し入れすることはほぼないのだけれど、万が一見つかったら嫌だったので結構奥に隠していたのを忘れていた。
「はい、プレゼント」
「おう」
ラッピングされた小さな箱を手渡す。ミツギがそれを開けるのを、不機嫌にしていたことも忘れてニコニコしながら見守る。
「カフスボタン……?」
白蝶貝にペイズリー柄が刻まれた美しい白いカフスボタンに一目惚れして、即決でこれをプレゼントにすることにした。去年の記念日にはネクタイピンをプレゼントしたのだけれど、やはりミツギはスーツを着ているイメージが強くて、いつもならヴァレンタインはいつもより少しいい食事にしたりチョコレートを贈ったりという感じなのだが、どうしてもプレゼントしたくなってつい購入してしまった。するとミツギが立ち上がって自室へ行ったかと思うと、何かを放って寄越した。手のひらサイズの箱で、奇麗にラッピングされている。
「おい、投げんじゃねえ。まったく、こんなに奇麗に包装されてるっつうのに」
箱を開けてみると、獅子が刻印されたボタンが印象的な黒の革のキーケースが入っていた。
「前にやったやつ、一本にしか付けられねえだろ」
前にやったやつ、とは付き合いたてのころにミツギの家の鍵と一緒にキーカバーをもらったのだが、鍵に被せて使う物でアヅマのアパートの鍵と区別するために付けていた。一緒に暮らすようになってからは、今の住んでいるマンションには鍵が二つあるので、一つに付け替えて使っている。
「うん。なんかキーケースとか欲しいなあとかちょっと思ってたから嬉しい。ありがと」
「こちらこそな」
足腰が立たないので腕を伸ばしたら、ミツギが近寄って来てくれて、ハグをした。
「なんでプレゼント用意してくれたの?」
「確かにヴァレンタインは何もなかったから今年は何もねえのかと思ったんだがな。前にやったやつ今でも使ってるし、新しく何か贈りたくなったっつうか……」
照れて僅かに頬を赤らめているミツギが愛おしくて、思わず頬に口付けた。もちろんその後、煽るなと怒られることになる。
後日、ミツギのスーツから覗くシャツの袖口には白くきらめくカフスボタンが見えていた。
ありとあらゆる行事を無視する季節感ゼロ人間なのですが、
フォロワーさんがいつも季節に合ったお話を書かれるので刺激を受けて私も書いてみました。
楽しかったです。