I love you and only you, forever and ever.
久しぶりに、最近手をつけていなかったクローゼットを掃除することにした。
(あー……、荒れてそうでやだなあ……)
普段リビングや風呂場やキッチンなどは掃除するが、クローゼットの中までは、なかなか手が回らず、ミツギに任せていたのだが、どうせ彼のことだ、掃除も片付けもしていないだろう。ふう、と一呼吸置くとクローゼットの扉を開けた。中の空気が何となく澱んでいる。見るも無惨なぐちゃぐちゃ具合で、アヅマは顔を顰めた。
「……どうしたら、こうなんだよ」
ハンガーポールにかけきれなかったと思わしき服や、何が入ってるのか分からないバッグなど、乱雑に積み上げれている。しばらく洗っていなさそうな、今の季節に着れそうな服を引っ張り出し、持ってきていた洗濯カゴに突っ込み、よく分からない荷物なども、いったん外に出す。雑に放り投げられているハンガーを整理して、服を通す。
「んー、このコート、クリーニングに出すかあ……」
季節が過ぎて適当にクローゼットに入れられたようなコートを見つめる。これは去年の秋頃、ミツギがよく着ていたものだ。
「うん、出そう」
クリーニングに出すものとそうでないものを選り分けて、ポイポイとベッドに放る。
「あ、そういや、シャツがなくなりそうとか言ってたっけ……」
シャツを洗うのを優先事項にする。埋もれているシャツを回収していると、一番奥に大きめのバッグがあった。旅行用のもののようで、まあまあ大きいので一番奥に押し込まれていたっておかしくはない。クローゼットの中も掃除機をかけたいので、それも引っ張り出す。口が少し開いていて、中が少し見えた。
(……ん? なんか入ってるのか)
何気なく見たそれは四角い白っぽい色をした何かで、二つ折りのそれを何気なく開いた。
「……は?」
それには写真が収まっていて、そこで着物の眉目好い女性が柔かに微笑んでいた。
(……これって、見合い写真じゃねえのか)
こんなクローゼットの奥に、なんでこんなものが入っているのだろう。バッグの中を漁ると似たようなものが何冊か出てきた。どれも別の女性で、皆美しい笑みを浮かべていた。
(ミツギに見合いの話が持ち上がってるっことか……?)
粗雑で乱暴な物言いで口が悪いのと汚部屋製造機であることを除けば、確かに彼は女性からしてみれば優良物件だ。男のアヅマから見ても、なかなかに上品な容姿をしているし、手に職も持っていて詳しくは知らないが、一級建築士などという資格からしておそらく高給取りだ。
(ふうん)
この女性たちを見ても何の感情も湧かなかった。だって今彼の恋人はアヅマなのだから。
(でもこれ、いつ貰ったやつだろ)
どれもみな新めなように見える。最近貰ったものなのだろうか。部屋の隅に見合い写真を積み上げて、クローゼットの整理を再開した。
ミツギが仕事から帰ってきて、夕食を共に摂って、アヅマは袋に入れたそれを見せて、単刀直入に聞いた。
「これ、なに?」
「……っ、それ」
ミツギが一瞬気まずそうな顔をした。彼がそんな顔をするなんて珍しい。意外な気分で彼の顔を眺めた。
「俺、今日休みだったから、寝室のクローゼットを整理したんだけど、これが奥に押し込んであったバッグん中に入っててさあ。これ、見合い写真だろ? いつ貰ったやつ?」
「一年くらい前だ。みんなお前と出会う前に押し付けられたやつ」
「……ふうん、みんな綺麗な|女《ひと》だよな」
袋からひとつ取り出し、改めて中身を見る。確かに美人だ。そんなアヅマをどこか緊張した面持ちでミツギは見つめていた。
「どしたん? 別に怒ってねえけど?」
「……実は、今日も貰ったんだよ」
ミツギは立ち上がると、仕事机に置かれたバッグの中から、アヅマが手にしているものと同じようなものを取り出して、アヅマに手渡した。アヅマはそれをペラリとめくった。大和美人という言葉が似合いそうな、柔らかな微笑みを浮かべた秀麗な美人だ。
「こりゃあまた、随分な美人だな」
「……取引先の令嬢とかで、会うだけ会ってくれねえかって、社長に言われた。俺は断ったんだが、会うだけでいいからって。社長にはお前のことも言ってあんのに、どうしてもって言うんだがよ。写真も押しつけられちまって。今までの写真も、捨てるに捨てらんなくて」
眉を上げてミツギと見つめ合った。どこか申し訳なさそうなミツギに、笑いかけた。
「会ってくれば?」
「……は?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたミツギの表情が、訝しむようなものになっていく。
「これも仕事のうちだろ? 会うだけ会ってくればいいじゃん。会って、俺がいるから交際は無理って言ってくれば? 会うだけでいいなら向こうにだって筋は通してるし」
能天気な声でアヅマが言う。迷っているようにミツギが眉尻を下げた。本当に今日は珍しい顔ばかりする。
「いいのかよ」
「別に。会ったら縁談が固まっちまうとかじゃねえだろうし。お前も大変だな。こんなの何冊も貰ってさ。お前結構見た目いいし、手に職持ってるから、女の人にモテるだろ」
「……まあ、だいたい向こうの要望だが」
「へえ。やっぱりモテるんじゃん」
アヅマは見ていた見合い写真を折りたたみ、床に置いた。ミツギの隣に座ると肩にもたれかかって、殊更優しく笑った。
「行って、恋人がいるから無理ですって言ってこい」
「……わあったよ」
眉間に皺を寄せたミツギが、はあと溜息を吐くと、アヅマは悪戯するようにミツギの頬にキスをした。
「ちゃんと出来たら褒めてやっから。頑張れ」
「……てめえは本当能天気なやつだな。どうすんだ、これでトントン拍子で決まっちまったら」
「……そうだなあ、相手の女とお前を殺して、俺も死ぬ」
ギョッとしたミツギの顔を見て、面白そうにアヅマが笑う。
「冗談だって。お前なら俺を優先してくれるって分かってる。……でも、そうだな、そんなことになったら……、素直におめでとうって言うよ」
「……喜ぶのかよ」
ミツギのサラサラとした金髪を指で掬いながら、くるくると指に巻き付ける。
「だって、お前に家族が出来るんだろ? いいことじゃん」
「俺は……、お前が他の女と結婚なんて、嫌だけどな」
真面目くさった表情でミツギが呟く。
「へーえ? お前、結構俺のこと好きなのね」
「うるせえ。じゃなかったら、こんな関係になってねえだろ」
「……そっか。そっかあ」
頬を緩ませて、アヅマは幸せそうに微笑んだ。ミツギはアヅマを抱き寄せて、顎を頭に乗せた。
「お前が言うなら会って、直接断ってくる。俺にはお前が居る。だから、断る」
「うん」
アヅマもミツギの胴に腕を回して、鼓動を静かに聞いていた。
夢を見た。ミツギがどこか知らない家で暮らしている夢。ダイニングテーブルで新聞を読んでいるミツギの周りで、小さな子供が走り回っている。キッチンから顔を出した女性が、子供に何か言ったらしく、子供は大人しくおもちゃを持って、子供用の椅子に座る。それを見たミツギが、子供の頭を撫でた。その目は、宝物を見るような――。アヅマはそこで目を覚ました。
(もしかして、俺、不安になってんのか)
ミツギが誰かと結婚してしまうのではないかと、不安に思っているのだろうか。
(見合い写真なんて見たから……)
フッと笑って、傍らで眠っているミツギを見た。ミツギが俺を捨てて、他の女と結婚するわけがない。それは確信に近い。付き合った年月は短いけれど、二人は深い縁で結ばれている。だから何の心配も要らない。だが、夢という不思議な黒いシミは、アヅマの心に滲んで洗い流せなかった。
見合い当日、ウンザリといった表情を隠しもせず、ダルそうに支度をするミツギを、アヅマは甲斐甲斐しく世話した。
「……はあ、せっかくの休みだっつうのに、なんで、見合いになんて行かなきゃならねえんだ」
いつもの派手なスーツではなく、クローゼットに放置されてカビでも生えそうだった上品な紺のスーツをクリーニングに出して、それと白いシャツをミツギに着せて、ネクタイも締めてやる。いつもウザそうにバサバサとはためかせている髪の毛も、一本に結ってあげた。
「はい、ちゃんと男前になってるぞ」
「……………………はあ、ありがとさん」
家を出る前から疲れているミツギの背を玄関まで押した。
「ほら、時間きちまうぞー。頑張ってこい」
「……………………はあー」
長い溜息を吐いて、部屋を出ていくミツギの背を、仕方ねえなあ、と笑って見送った。
ミツギが出かけて暇なので、買い物に出かけることにした。今日頑張るミツギのために、美味しいものを食べさせてやろう、そう思ってスーパーまでのいつものルートを歩く。いつもなら気にしない路地を通り過ぎようとして、何かが目に入った。誰も通らないような路地裏。
(……ん?)
目を凝らすと、占いという看板の字が目に入った。
(なんだ、占いか。…………でも、なんでこんなとこに占い?)
占いなど信じるタイプではないが、なぜだか急に気になりだして、誘われるようにそこに近づいて行った。
「いらっしゃい」
中年とも老年とも取れぬ女占い師が、ベールというのかフードというのか分からないが――を頭から被って、口元だけを覗かせて、アヅマに話しかけた。妙に赤い唇が印象的だった。
「すんません、なんとなく近寄っただけなんで、別に…………」
「お兄さん、お困りでしょ?」
「え?」
戸惑いを隠せないアヅマに、赤錆のような……、まるで血のようなルージュを塗った唇が、口角を上げて占い師が笑う。
「いいのよ、隠さなくても。私には分かるの。あなた……、困ってるわね。恋人のことで」
「っ! な、なにを……」
占い師がアヅマを手招きする。近付きたくないのに、体が勝手に占い師の方へ行ってしまう。占い師が若い女の声で小さく囁いた。
「私には分かるの。彼のそばにずっと居たいわよね。…………でも、あなた、薄々分かってるんじゃない? ずっとは一緒に居られないって」
脳裏が冷えていくのを感じた。占い師の言葉が脳内を焼き切っていく。
「でも私にならあなたを助けられる。困ったら、またいらっしゃい。それから……、本当に困った時、どうしても彼のそばに居たいと本気で思うなら、私が力になってあげる」
幼女の、若い女の、中年の女の、老女の、様々な年齢の女の声が頭の中でこだまする。――本当に困った時、どうしても彼のそばに居たいと本気で思うなら、私が力になってあげる――。アヅマは動くこともできず、立ち尽くしていた。
アヅマは時計を見た。ミツギが出かけたのは昼前で、今はもう二十時近くになる。見合いとはこんなに時間がかかるものなのだろうか。ローテーブルに夕食を並べて、ミツギを待っているのだけれど、一向に帰って来ない。メッセージを送ったけれど、返信もない。電話でもしてみるか、とスマホを手に取った時、ガチャリと鍵の開く音がした。彼が帰ってきたのだろう。
「ミツギ、遅くなるなら……」
文句のひとつでも言ってやろうとして、ミツギの顔を見たアヅマは言葉をなくした。酒に強いはずの彼がどこかふらふらとしていて、顔まで少し赤らんでいる。
「酔ってんの?」
「……あー、…………すっげえ、飲まされた。シャワー、浴びてくる」
話すのもかったるそうに髪を掻きながら、ミツギが浴室に向かう。あんなに酔っているミツギは初めて見た。彼が酔うなんて、どれだけ飲んだんだろう。少し心配になりながら、浴室の彼に向かって話しかけた。いつもみたいな、滝行のような音はせず、静かな水音だけが反射して聞こえてくる。
「メシ、どうする? 食える?」
「…………要らねえ。悪りいな」
「おけ、大丈夫」
結局ミツギはシャワーを浴びた後、すぐに寝室に行ってそのまま眠ってしまった。彼の好物ばかりを並べたテーブルを見て、なんとなく悲しくなった。用意した食事にラップをかけて、冷蔵庫に仕舞う。
(そうだ。明日二日酔いにでもなったら可哀想だから、薬でも買ってきてやるか)
財布を後ろポケットに捩じ込んで、ドラッグストアに向かった。初めて見るミツギの姿に、何故か不安を感じながら、それでもそれを振り切るように、走った。翌日のミツギは危惧した通り二日酔いで調子が最悪だった。頭を抱えてずっと唸っている。
「……っ、クッソ……」
「ほら、薬あるから飲めよ。飲める?」
手渡した薬をなんとか手にして飲み下した。そのままベッドの上に横になる。窓から差す陽光で、枕の上に散らばった金色の髪の毛が光っていた。氷嚢を額の上に載っけてやった。眉間にクッキリと皺を寄せて、ほとんど真っ青と言っていい顔色で目を瞑っているミツギの頬を一撫でして、痛んでいるのであろう頭に響かないように、小さな声で、
「ゆっくり寝てろよ」
そう言って返事を待たずに部屋を静かに出て行った。うるさかったら嫌なのでテレビもつけず、スマホをひたすら眺めている。ネットニュースを眺めているのだが、全然文字が頭に入ってこない。頭の中で消えては蘇り、消えては蘇りを繰り返すのは、昨日のミツギの妙に酔った姿だった。仕事で飲み会があった時だって、あんなに酔っているのは見たことがなかった。彼は自分の限界を知っているタイプだし、いつもセーブしている。昨日だけはなぜあんなに酔っていたのだろう。なんとも言えない胸騒ぎがして、ソワソワする。いってもたっても居られなくて、寝込んでいるミツギを置いて外に飛び出した。勢いで飛び出したが、行く宛などない。癖で持ってきていた財布がポケットにあることを確認して、スーパーで買い物でもしようと、そちらへ足を向ける。
(……そういえば)
あの路地裏に、占い師は居るだろうか。誰かに、この嫌な胸騒ぎを吐き出したい気持ちが強くなって、路地裏の方へ。そこに占い師は、昨日と同じようにちょこんと座っていた。
「いらっしゃい。……やっぱり、来たわね」
「やっぱりって、なんすか」
ふふ、と小さく微笑みを湛えて占い師はさも当然のように言った。
「あなたの好きな人、昨日普通じゃなかったでしょ?」
「…………なんで、それを」
小さな机の上で綺麗な指を組んで、少し考えるように沈黙した。しばらく経って、占い師は口を開いた。
「……………………ああ、そういうことなのね」
「何が…………?」
「あなたの彼、昨日薬盛られてるわよ」
「はあ?!」
アヅマは思わず叫んでしまった。声も裏返る。
「彼女、どうしても彼と結婚したくて、薬盛って酔わせて既成事実を作ろうとしたのね。ちなみに彼女の親もグルよ。そうね、彼のところの社長は知らなかったみたいだから、心配しないで」
「なんで、そんなことを……」
「それはね、アヅマさん、あなたと一緒よ。あの女性も、あなたのミツギさんを好きなの。それに親からしてみれば、政略結婚で会社が大きくなるなら万々歳じゃない」
アヅマの名前も、ミツギの名前も、占い師はなぜか知っていて、当然のように呼ぶが、今は気にならなかった。占い師が口にした『事実』が、リフレインした。
「ミツギさんは偉いわ。薬を盛られて悪酔いして、頭の中ぐちゃぐちゃになってたけど、ちゃんと縁談を断ってる。あなたを愛してるのね」
「……そうなんすか」
ホッとした。なぜ、昨夜ミツギが妙に酔って帰ってきたことや、見合いでのことを知っているのかが、疑問だったけれど、それよりも先に占い師の言葉で安堵してしまった。
「良かったわね。ミツギさんは誠実な人よ。…………でも、気をつけた方がいいわ」
「へ?」
ルージュで彩られた唇を不憫そうに歪ませて、囁いた。
「彼女、あなたの彼を、諦めていないわね。虎視眈々と狙っている。機会を窺っているわ」
「ミツギは断ったのに?」
「恋人が居るっていうだけじゃ、諦めるような女ではないということよ。彼女、美しい人だけれど、見た目に反して嫌な女ね」
写真の中で美しい笑みを浮かべていた、あの女の顔が浮かぶ。腹の底で、マグマが煮えたぎるように、怒りが湧いた。人は見た目だけでは分からないというのは、こういうことを言うのだろう。ミツギに薬まで盛って、既成事実を作ろうだなんて、やり方が汚すぎる。反吐が出そうだ。胃のムカつきを堪えながら、アヅマは占い師の言葉を待っていた。
「彼のことはあなたが守ってあげなくてはいけないの。彼にとって、あなたが唯一なのだから。困ったら、またいらっしゃい」
スーパーから帰ると、ミツギがちょうど寝室から出てきたところだった。荷物を置いてミツギの顔色を見る。顔色は少し良くなっていて、片手に氷嚢をぶら提げていた。氷が解けているのか、水の音がポチャポチャと鳴っている。
「もう少し寝てれば? 氷、取り替えてやっから」
「……ああ、悪りいな。…………なんか、お前、顔色悪くねえか」
眉根を寄せてミツギがアヅマの顔を見た。
「なに言ってんだよ、お前のほうがよっぽど悪いわ。ほれ、ベッドに戻った戻った」
ミツギを寝室に押し戻し、ベッドに横たわったのを見届けてから、氷を取り替えて、薄目を開けて天井をぼんやりと眺めている彼の額に氷嚢を載せた。頭をほんの少し触って、部屋を出る。
「まったく、仕方ねえなあ、ミツギは」
笑みを浮かべながら、ローテーブルの傍に放置されていた袋から目当てのそれを取り出して、キッチンへ向かう。それを広げて、ぼんやりと眺める。シンク下に手を延べて包丁を取り出すと、写真の女の顔を切り裂いた。何度も何度も。ズタズタに切り裂いて、あの憎い女の顔が見られないものになると、アヅマは満足そうに息を吐き、写真をゴミ箱に丸めて捨てた。ミツギに見つからないように、奥に押し込んで。
夕方、昨日の残り物を捨てていると、ミツギがまた寝室から出てきた。ウザったそうに前髪をかきあげて、アヅマの後ろに立った。アヅマの手元を見ている。振り返って彼の顔を見ると、スーパーから帰ってきた時に見たよりもだいぶ顔色が良くなっている。
「おお、だいぶ顔色良くなったじゃん」
「それ、昨日の残りもんだろ。まだ食えんじゃねえのか」
「ああ、これ? 昨日作ったやつだし、なんか縁起悪りいなって思って捨ててんの」
「あ? 縁起悪いって……」
ニコニコとアヅマは笑って皿をシンクに置くと、ミツギをソファに追いやった。
「ほーら、まだ本調子じゃねえんだから、座ってろって。これから夕メシ作っからさ。あ、でもお前はお粥ね!」
「わあったって。押すんじゃねえ」
渋々ソファに座ったミツギは、大きい溜息を吐いて、雑誌を開いた。包丁が食材を刻む音が乱れることなく、続いている。
「もう、頭痛くねえ?」
「まあな……。だいぶマシにはなった」
「そっか、良かったな。…………ところでさ、あの人にはもう会わないんだよな?」
規則正しく続いていた包丁の音が止まった。
「……? あの人? ああ、昨日の見合いか。断った。言ったろ、断るって」
「そうだよな」
包丁の音が再開する。アヅマはふんふんと機嫌良さそうに鼻歌を歌っていた。
今日もミツギの帰りを待ちながら、テレビを見ている。メッセージには帰りは二十三時頃になるとあったので、一人で夕飯を済まして、風呂にも入った。食事はラップがかけられて、ミツギに食べられるのを待っている。ガチャと音がして、アヅマは玄関に向かった。ジャケットやらシャツやらを脱ぐミツギの顔はどこか暗く、それらを受け取りながらアヅマはミツギの頬に触れた。
「どした? そんなに仕事大変だった?」
ミツギの眉間に皺が寄った。重苦しい溜息を吐いて、肺から全て酸素を出し切るかのような、長い溜息だった。アヅマの肩に頭を乗せて、ボソボソと呟いた。
「見合いの話、断ったんだが、向こうからまた会いたいって打診が来たんだと……。大口の取引先だから、社長も断りきれなくて、また会ってもらえねえかって…………」
ミツギの頭を撫でた。指通りはサラリとしていて、絹のよう。アヅマは詰るような響きにならないように、努めて静かに聞いた。
「どうすんの?」
「会わねえに決まってる。一度会って筋は通した。ちゃんと断りも入れた。社長には悪いが、これ以上何かしてやる義理はねえ」
ミツギの顔を持ち上げて見つめると、疲れきったような顔をしていた。両手で彼の頬を包み込み、優しくキスをした。持っていたジャケットやシャツが腕から滑り落ちていく。ミツギの少し体温の低いサラサラとした手のひらが、アヅマの手に重なる。少し唇を離すと、彼が囁く。
「俺にはお前が居るから」
「ありがと」
口付けが深くなっていく。そのまま、寝室へ縺れ込んだ。ベッドで抱き合った後、相当疲れていたのか、シャワーも浴びずに寝てしまったミツギの背中を眺めていた。アヅマが意図せず引っ掻いてしまったらしい、みみず腫れに指を這わせた。
「風呂、滲みねえといいけど」
静かに呟く。ベッドを出て、ローテーブルに放置されていた夕飯を片付ける。ふいに、ミツギのあの疲れた顔を思い出して、苛立ちを覚えた。ミツギにではない。あの女だ。断られた分際で、身の程も知らず、またミツギに会いたいだなんて、よほどミツギのことが好きらしい。それでも彼に愛されているのはアヅマなのだ。フン、と鼻を鳴らす。会ったこともない相手に小さな優越感を覚えて、踊り出しそうなステップで寝室へ戻る。
「おやすみ」
小さく呟いて、背中に刻んだ小さな傷に頬擦りしながら、眠りについた。しかし、そんな小さく抱いた優越感さえ、粉々に打ち砕かれることを、まだアヅマは知らない。
いつものようにアルバイトを終えて、スーパーで買い物をして、食事の支度をして、ミツギの帰りを待つ。そんないつもの風景。今日は帰りが早くなりそうだと、連絡が来ていたのに、その時間になっても彼は帰って来なくて、日付が変わる十分前になってようやく帰って来た。
「遅かったな」
下を向いて靴を脱いでいたミツギの肩が、僅かにビクリと動いた。なんだろう、と思っていると、左腕を後ろにまわしたのが見えた。ミツギが頭を上げて、あまり似合わない苦笑いをしている。
「悪りい、急に仕事が入っちまって、連絡し損ねた」
そんなミツギを見てアヅマは表情を綻ばせた。
「本当、ミツギって素直だな」
「はあ?」
ミツギが目を瞬かせた。
「ミツギってさ、自覚あるか知らねえけど、俺に嘘吐く時っていうか、隠しごとがある時、左の眉が上がるんだよ。なにか隠してるだろ?」
途端にミツギは苦虫を噛み潰したような表情になった。死罪を言い渡されたような囚人のような悲壮感すら漂わせて、告解した。
「帰りに見合いした女に会った」
「うん。それで?」
「俺が帰るのを待ち伏せてやがって、食事に付き合えって言われて、断ったんだが……。父親にうちの会社との取引をやめさせてやるって脅されて、仕方なく付き合った」
「ふうん」
アヅマは顎に手をやった。ミツギはアヅマに詰られるとでも思っていたのか、俯いていたが、アヅマがなにも言ってこないので訝るような表情になる。
「食事しただけっしょ。お疲れ」
「はあ……。お前に殴られる覚悟で帰って来たんだけど」
「だって一緒にメシ食っただけじゃん。ホテル行ったわけじゃないし。別に」
飄々とした態度で、アヅマは答えた。アヅマにはあとひとつ、気になることが残っている。
「あと、左手で隠してるの、なに?」
ミツギの顔が強張る。長い息を吐いて、隠すのを諦めたのか、怖々と差し出されたのはデパートの紙袋だった。
「なにこれ?」
「メシ」
「……メシ?」
紙袋の中身を見た。タッパーに入った彩り豊かな料理。そんなものが何個も。ご丁寧にドライアイスまで入っている。一瞬、世界が回った。頭が沸騰したように熱くなったかと思えば、瞬時に血圧が足先まで下がったように、体が冷たくなった。
「……きもちわるい」
アヅマは一言そう呟いた。胃から喉奥へ込み上げるものがあって、袋を落とすと、トイレへ駆け込み、便器の蓋を開けて、吐瀉した。驚いたミツギが後ろから追いかけて来た気配はしたが、それどころではなかった。吐き気は一度ではおさまらず、何度も何度も今日食べたものを嘔吐した。胃の中が空っぽになっても胃液を吐き続け、吐き疲れて便器の前に蹲った。ミツギが背を摩るのを虚ろな神経で感じる。
「おい……! 大丈夫か、アヅマ。水持って来てやるから、待ってろ」
死んだ目のアヅマが顔を上げて、冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出そうとしているミツギの背中を見た。
「……て」
「なんだって?」
「アレ、捨てろよ。今すぐ」
蹲って弱々しい風体とは裏腹に、強い声で言い放った。目が据わっている。
「……分かった」
ミツギは気圧されたように頷き、アヅマが落とした袋を拾い上げて、ゴミ箱に入れた。
「ほら、そんなことより、水だ。飲めるか?」
「……ん」
目がまたぼんやりとして、水を飲もうとしても、口の端からボタボタと溢している。ミツギはぐったりとしているアヅマからボトルを取り上げて、水を自分の口に流し込むとアヅマのそれに押し付けて舌を入れ、注ぎ入れた。それを何度か繰り返して、動けないアヅマを抱えて、寝室に寝かせた。
「…………悪かった。あんなもん、途中で捨てちまえば良かった」
青ざめたアヅマの頬を撫でて、ベッドに腰掛けたミツギが溢した。悲惨な状態のトイレをどうにかしようと立ち上がったミツギの指を、アヅマがそっと握った。虚空を見つめた瞳が薄っすらと開いている。
「……おれたち、ずっといっしょだよな」
子供のような、縋るような、アヅマの小さな呟きだった。
「…………当たり前だ。楽園、一緒に作るんだろ」
ミツギは堪らなくなって、目頭が熱くなるのを感じて、堪えるように、目元を押さえた。
アルバイトが終わって、家路に着こうとした時、仕事場であるコンビニの隅に一人、女性が立っていた。待ち合わせでもしているのだろうか、なんて思いながら通り過ぎようとした時、その女性が突然声を発した。
「あっ、あの!」
「へ?」
顔を見て硬直してしまった。写真とは違って着物ではなく洋服で、いかにもいいところのお嬢さんといった上品な出立ちの――、ミツギの見合い相手の女だった。なんで、こんなところに、居る?
「アヅマさん……、ですよね。ミツギさんの、恋人の」
彼女はそうアヅマに確認した。そんなことまで調べ上げているのか。女は実際に会ってみると写真に映っていたよりも幼い顔で、ソワソワと落ち着きなく手元を動かしていた。
「そうですけど、なんすか」
敵愾心からつい冷たい言葉になる。
「……あの、突然こんなところにまで押しかけて申し訳ありません。どうしてもアヅマさんとお話したくて!」
「俺には話すことなんてありませんけど。…………ああ、そうだ、ミツギはあんたに断り入れたんでしょ。迷惑だからしつこくしないでやってくんない?」
そうアヅマが言い放つと、なんと女は泣き出した。唖然として見つめていると、聞いてもいないのに、自分のことを語り出した。たまに父親の会社の手伝いをしている大学生であること、たまたま会社で見かけたミツギに一目惚れしたこと、どうしても交際したくて、紹介してもらえるように父親に頼み込んだこと。
「少しお見かけしただけなんですけど、真剣に仕事の話をしているミツギさんが本当に素敵で、一目惚れだったんです。だからお見合いなんて口実作ってでも、ミツギさんにまた会いたかった。簡単にいくなんて思ってなかったですけど、恋人が居るからって、断られてショックでした」
「あのさあ、悪りいけど、こっちだって分かってんだよ。あんたらがミツギに薬盛って、既成事実作ろうとしたこと」
「……それは後から親から聞かされました。最低なことして、申し訳ありません…………」
そう言って彼女は深々と頭を下げた。それをするべきなのはアヅマにではなく、ミツギに対してするべきだ。
「俺に言われてもな。ミツギに謝れよ。……はあ、もういい? 帰るから」
踵を返そうとしたアヅマの背中に、彼女は投げかけた。
「単刀直入に言います。ミツギさんと別れてもらえませんか」
足が止まる。メデューサにでも睨まれたかのように体が固まってしまう。なにを言っているんだ、この女は? 苛立ちを隠しきれず、女を睨みつけた。
「はあ?」
「横恋慕とか、嫌なんです。だから別れてもらって、正々堂々と告白して交際したいんです」
「なに言ってんの、あんた。今だって十分横恋慕してるし、ミツギがあんたを好きになるとは思えねえけど?」
終始しおらしかった女の目に、苛立ちが宿った。
「そんなことありません。私のことを知ってもらえれば、きっと好きになってもらえます。私はそれだけの努力をしています」
「へえ、ずいぶん自信あんだな」
アヅマの口角がニヒルに上がる。蔑んだような目で女を見た。
「家事だって出来ますし、女だから結婚も出来て、子供も産めます。あなたには出来ないでしょう?」
「……ふん。アイツはな、それを承知の上で俺を選んだんだよ。あんたが略奪しようなんて隙間はねえんだよ」
「略奪なんかじゃありません!」
ヒステリックに女が叫ぶ。
「恋人と別れさせて付き合うなんて、十分略奪だろうが。言葉遊びしてんじゃねえんだ。あんたさあ、ミツギをモノ扱いしてる自覚ある? 自分が好きになったから付き合いたい、結婚したいって、そこにミツギの意思はあんの? そういうのさ、アイツ、一番嫌いだよ」
女は怯んだ表情になった。唇を噛み締めて、俯いた。
「話は終わりだな」
そう言ったアヅマの顔を、女は最後の仕返しとばかりに睨みつけて、呪詛を吐いた。
「男のくせにミツギさんを誑かして気持ち悪いのよ! あなたとミツギさんがどのくらいの付き合いか、知ってるのよ。たったの数ヶ月じゃない。私は何年もあの人だけを見てきたの!」
「ふうん。でもあんたは選ばれなかった。それだけだろ?」
アヅマはそう言い捨てて、その場を後にした。背後で泣きじゃくる女の声が響いた。
ミツギに、あの女に会ったことは言わなかった。気苦労がただでさえ多いのに、これ以上心配はかけたくなかった。月明かり差し込む寝室で、ミツギの寝顔を見ながら、あの女の顔を思い浮かべた。思ったより幼くて、妙に自己肯定感が強くて、自分ならミツギに愛されて当然みたいな態度だった。
(親や周りに相当大事にされて、愛されて育ったんだろうな。……なんの苦労も知らずに)
自分が好きなら相手も好きになってくれるはずという謎の自信は、アヅマにとっては一番理解しがたいものだった。アヅマにとって、誰かに愛されるということ自体が自分には得られないものだと思っていたことだった。アヅマは自分のことも他人のことも愛さない。愛を知らずに、そうして生きてきた。けれどミツギに出会って、喧嘩ばっかりだけれど、初めて誰かを大切にするということを知った。ミツギに大切に思われて、自分を大切にするということを学んだ。人生で初めて得られた奇跡みたいな関係を、奇跡みたいな愛を、『気持ち悪い』などと、そんな一言で片付けられてたまるものか。だが、あの女の言葉の中で、正解は一つあった。アヅマとミツギは結婚できない。子供も作れない。誇らしげに、誇示するように、強調して言っていたあの女の顔を、頭の中で黒く塗り潰す。アヅマは温かい家庭などと、そんななまっちょろいものは知らない。両親に虐げられ、弟を殺して生き延びた過去がある。だから、いつからか、不安に思うようになった。それは、恐らく初めて見合い写真を見つけた時から。ミツギは普通の家庭に生まれ、おそらく普通に両親に愛され、両親を失ったあともコトハラさんという大切な人に大事にされて育った。ミツギがもし、普通の温かい家庭を築きたいと思うようになったら――。アヅマの出る幕などなくて、ほかの女性を選ぶしかない。なぜなら、アヅマは男で、結婚も出来なくて、ましてや子供など産めるはずもない。いつか、自分が要らなくなるのではないか。他の誰かを好きになって、その人と結婚してしまうのではないか。怖くてたまらなくて、ずっとそばに居るという証を、ナイフで刻みつけて欲しかった。神様の気まぐれで、孤独な人生に一つ落ちてきた道しるべのような星を、失くさないように必死だった。その点、あの女は――、彼女は理想的だった。健気にミツギだけを見つめて、実家も太くて、ミツギの恋人であるアヅマに別れるように直談判するだけの肝の太さもあって。まあ、面の皮が厚いだけかもしれないが。彼女のような女性なら献身的にミツギを支えるのだろう。
(俺が女ならあんなこと言われなかったのかな)
本人は知らなかったようだが、薬を盛るなんて卑怯な手まで使ってきた相手なのに、なんだかミツギに似合いの女性のように思えてきて、胸が苦しくなる。
「なあ、俺たち、ずっと一緒だよな……?」
溢れてくる涙が止められずに、滂沱の涙を流しながら、ぼそりと呟いた。
「俺、嫌だよ。お前を誰にも盗られたくない。ずっとミヅキのそばに居たい。俺はお前しか要らないのに」
膝を抱え込んで、頭を俯けた。
「ミツギ好きだよ。だから、ずっと俺たち一緒だよな?」
月に照らされた涙が一筋、静かに落ちていった。強い意志を宿した瞳が、涙を湛えて夜に煌めいた。
ミツギは小さな子供を抱えて、約束のファミリーレストランに入った。
「おお、ミツギ! こっちこっち!」
久しぶりに見たマツダはラフなポロシャツ姿で、やっと歳と外見年齢が相応になってきたと見える。タカラがマツダの横に移動して、ジュースを飲んでいる。ミツギが店員に声をかける。
「すみません、子供用の椅子、いいですか」
「はい、かしこまりました」
店員は子供用の椅子を持ってきて置いていく。ミツギは抱えていた子供を手慣れた手つきで座らせて、ベルトをつけた。
「本当、ミツギが子供育ててるなんて、意外すぎてビビるわ。本当似合わねえな」
マツダが笑いながら言うので、ミツギは思わず睨む。
「悪りい、悪りい、冗談だって。〇〇、今いくつだっけ?」
「今、何歳だってよ」
ミツギが促すと、子供はVサインを作って答えた。
「さんさい!」
「おい、それじゃあ、二歳じゃねえか」
ミツギが小さな指を三本にする。
「ははっ。可愛いなあ。俺のこと覚えてる? 会うの、久しぶりだからなあ」
「こいつらのこと、覚えてるか? 昔会ったことあるだろ?」
ミツギが子供の柔らかな髪の毛を撫でた。
「うー? うん、おぼえてるよ。マツダおじちゃんとタカラにいちゃん」
「マツダ、おじちゃんだってさ」
タカラがおかしそうに笑う。タカラは島で出会ってから少しも変わっていない。いまだに中学生かのように見える。
「なんで俺がおじちゃんで、タカラが兄ちゃんなんだ……」
マツダが打ちひしがれていたが、それには構わずメニューを手に取り、子供の前に広げた。
「どれ食いたい?」
子供は色とりどりのメニューを眺めて、これ! と指差した。ミツギはそれを確認すると、テーブルに備え付けの呼び鈴を鳴らした。すぐに店員がやってきて、ミツギが注文する。
「ホットコーヒーひとつとお子様ランチひとつ」
「かしこまりました」
目の前の二人がニヤニヤとしているのを気味悪そうに、ミツギが見やった。
「ミツギ、本当パパしてるんだねえ」
「本当だよなあ。あのミツギがなあ」
短くなった黒髪を掻き上げながら、ミツギが悪態をつく。
「うるせえな、黙れクソが」
「おー? そういう言葉遣いは子供に悪影響じゃねえ?」
マツダが面白そうに言うが、ミツギは無視して隣の我が子を見つめていた。子供は持っていた車のおもちゃで遊んでいた。
「〇〇は将来有望だな。三歳にして美少年だ」
「本当だね。パパとママ、どっち似?」
「……さあな、正直どっちにも似てねえ気はするけど」
マツダが顔を引き締めて、静かに聞いた。
「嫁さん、亡くなってどんくらい経つっけ」
「あー……、二年半くれえだな」
「そっかあ、もうそんなに経つか……」
ミツギの妻は結婚してすぐに子供を授かって無事に出産したまでは良かったが、出産して半年ほどで交通事故で亡くなった。だからミツギの子供は母親の記憶がほとんどない。ミツギが母親の写真を見せてもあまり関心を持たず、父親にべったりの甘えたの子供だった。ミツギはまさか父一人子一人になるなどと思ってもみなかったので、仕事をセーブしながら子供を育てた。会社の連中もミツギの境遇に同情し、かなり助けられた。それをとても感謝している。コーヒーが先に運ばれてきたので口をつけるが、横目でじっと子供の様子を見ている。すっかり父親らしくなった。
「ミツギの奥さんってどんな人だったっけ?」
「なんつうか、世間知らずのお嬢様って感じだったな。まさか大学生が七つも上の男に本気で惚れてるとか、思わねえよ」
「すごいアタックされたんだっけ」
「まあな……」
ミツギは困ったように眉を下げて、子供を見やった。マツダもタカラも、ミツギの妻がどういう人物か知っている。
「…………、アヅマどこ行っちゃったんだろうね」
タカラの呟きに、ミツギはコーヒーの水面に映る自分の顔を見つめた。動揺した顔をしている。もうずっと、ミツギは罪悪感を抱いていた。もう二度とアヅマに顔向け出来ない。自分が胸を張って生きていられるように生きる、そう誓っていたのに。――アヅマはミツギと交際しているさなかで、失踪した。ミツギの見合いの話があってもそれでも笑い飛ばしていたアヅマは、しばらくしてから様子がおかしくなった。妙に指に傷を作っていたり、仕舞いには手首にガーゼを貼っていた。眠る時には悪夢に魘されて泣いたり、夜中にトイレに閉じこもっていた。食事もろくに摂れずにゲッソリと痩せていくアヅマを、ミツギは見ているのが耐えきれずに病院に連れて行った。ノイローゼと判断されて、しばらく入院させたりしたけれど、甲斐もなくアヅマは弱っていき、ある日姿を消した。方々を探し回って、マツダやタカラにも連絡したが、彼らもアヅマが何処に居るか知らず、結局見つからなかった。タカラはホウライ・グループの力も使って、アヅマの居所がやっと分かった。
『なんか、怪しい占い師のところに居るみたい。ミツギのところには帰らないってさ』
そう聞いたとき、耳を疑った。アヅマは占いに興味もなさそうだったし、そんな話聞いたこともなくて、疑ってしまったが、いくら電話をかけても出ず、それが本当なのだと受け入れざるを得なかった。アヅマが居なくなって、心が放り出されてしまったかのように、虚脱感に苛まれていた彼の心の隙間を埋めたのが、アヅマがノイローゼになる原因を作った、あの見合い相手だった。十近く歳下の女に押しに押されて押し負けて、いつの間にか心を許していて、彼女が大学卒業するのを待って結婚した。いつも幸せそうに笑う彼女に、心を揺さぶられて愛した。子供もすぐに出来て、幸せってこういうものなのかと、そう思っていた。幸せの絶頂からすぐに転げ落ちて行った。交通事故で、彼女が彼女の両親と共に亡くなった。彼女は二十三歳の若さでこの世を去った。そこからは目がまわるような忙しさで、子育てと仕事をすることで精一杯で、ガムシャラに生きたが、時々夢にアヅマが現れて、笑いかけるのだ。
『ミツギ』
身の回りのことなど何もできないミツギに呆れている時の、あの優しい声で語りかけてくる。
『ほんっと、お前って仕方ねえなあ』
夢の中で、行くなと叫ぶけれど、アヅマはもやがかって消えてしまう。どうしてお前は居なくなってしまったんだ? 彼に聞きたいけれど、聞く前にいつも消えてしまうのだ。
「お待たせしました。お子様ランチでございます」
ハッと意識が浮上する。子供のお子様ランチが運ばれてきたらしい。
「わーい」
隣に座る子供が無邪気に声を上げる。ミツギが子供用のフォークとスプーンを手渡してやると、子供はそれらを小さな手で掴んだ。どれを食べようか悩んでいるつむじを撫でた。
「奥さんの写真見たいなあ」
タカラが目をキラキラさせて、ミツギに向かって首を傾げた。それに賛同するようにマツダも見たい、と言い出した。
「……チッ」
仕方なくスマホを取り出し、写真フォルダをスクロールする。
「ほらよ」
スマホを差し出すと、タカラが楽しそうに覗き込む。
「わあ、これ、〇〇が生まれた時の写真? 可愛い」
「へえ、こんなに小さかったのに、こんなに大きくなって」
マツダが親戚のおじさんのようなことを言っている間にも、タカラは写真をスクロールしていく。
「おい、勝手に見んな」
「おおー、本当に奥さんと〇〇ばっかり。ミツギが愛妻家で子煩悩になるなんて、人生なにが起きるか分かんないねえ」
「本当だよなあ」
ミツギはスマホを引ったくって取り上げると、懐にしまった。横の子供を見て、溜息を吐いて、あまり大きな声にならないように諭す。
「お前、野菜も食えって、いつも言ってるだろうが」
「やー!」
子供は肉ばかり手をつけて、野菜はまるっきり残している。フォークでブロッコリーを刺して、我が子の口元に向ける。それを見て、子供はプイと顔を背ける。
「いや! パパたべて!」
「これはパパのメシじゃねえ。お前のなんだから、お前が食え」
そんな親子の様子を見て、マツダとタカラがヒソヒソと話している。
「ミツギが自分のこと、パパって言ってる……」
「逆に怖いよな……」
そんな二人をひと睨みしてから、子供に向き直った。
「〇〇? お前はいい子だから、食えるよな?」
「うー……。〇〇はいい子だけど、ブロッコリーはやー!」
子供の断固拒否にミツギは大きく溜息を吐いた。
「子供って、どうやったら野菜食うんだ……。こいつ、全然野菜食わねえんだよ。俺は料理出来ねえし、本当こういう時、女房が居てくれたらって思うわ……」
いつも栄養がきちんと管理されている冷凍の弁当で食事を済ませているらしいが、子供の野菜嫌いに苦慮しているらしい。
「オレ、子供居ないから分かんないや。頑張って!」
「俺も……。頑張れ!」
無責任に、頑張ってと言われたミツギはふうと息を吐いた。ブロッコリーは諦めた。そんな父親の様子を見て、子供はまた好きなものだけを食べ始めた。
ファミレスを出て、二人が子供と遊びたいと言うので、公園に来た。長身のマツダが子供を高く持ち上げて回ったりすると、キャッキャと嬉しそうに笑っている。
「すげえな、マツダ……。俺にはもう重くて無理だ」
「ミツギは相変わらず、もやしなんだねえ」
「てめえと比べたら誰だってもやしだろうが」
「はは。そりゃあ言えてるね」
タカラがマツダと子供に駆け寄り、三人は砂場で遊ぶようだった。ミツギは彼らをベンチで眺めながら、懐に入れているスマホを取り出した。連絡先のアプリを起動し、見つめた。アヅマの電話番号を見つめるのが癖になっていた。彼が居なくなってから、一度だけ、電話がかかってきたことがあった。仕事中で本当に突然だったので、驚いたが恐る恐る電話に出た。
『もしもし、ミツギ?』
『アヅマ? 本当にアヅマか?』
『アヅマだけど』
のんびりとした口調に安堵より怒りが降って湧いて、怒鳴りつけそうになったが、仕事場なので堪えて小さな声で問いかけた。
『てめえ、今どこに居やがる。どんだけ、心配したと……』
『俺さ、ミツギとずっと一緒に居られる方法、見つけたよ』
言っている意味が分からず、混乱した。
『何、言ってんだ……?』
『これからはお前とずっと一緒だよ。愛してる、ミツギ』
アヅマはそれだけ言い残して電話は切れた。それからはもう、電話もなにも来なかった。すぐに亡くなってしまったとはいえ他の女と結婚して、子供も居るのに、未練がましくアヅマの携帯番号を登録しているのは、ひとえに彼への愛と罪悪感だった。アヅマへの愛情と妻への想いは簡単に天秤にかけられるものではなく、どちらもミツギにとって大切なもので。それでもアヅマを不安定にさせた女と結婚したことへの罪悪感が、常に付き纏っていた。きっとこれはアヅマへの裏切りに近い。だから、二度とアヅマに顔向け出来ないのだ。
(こんな男だって分かってたから、アヅマは消えちまったんだろうな……。アイツが最後に言ってたことは、今の今まで分かりやしなかったし)
顔を上げて、楽しそうに砂場で遊ぶ子供の横顔を見る。何よりも大切に思う存在が、今のミツギには残されている。アヅマも妻も失ったミツギに残った、唯一の存在。誰よりも愛しい、可愛い子供。手に持っていたスマホをしまった。
「あー! あいすー!」
愛しい子供がアイス販売をしている車を指差した。楽しそうに笑っている。
「なあ、ミツギー! アイス買ってやっていいかー?」
「まったく、野菜は食わねえくせによ。仕方ねえな。待ってろ、行く!」
四人で車に近付く。看板を見ながら、どのアイスにするか考えていると、子供がううーんと悩んでいる。
「そーだ……、でもばにら……」
「腹壊すから一個だけだぞ」
ミツギが釘を刺す。悩ましげな顔で看板と睨めっこしていると、マツダが笑って子供の頭を撫でた。
「俺がバニラ買うから、〇〇はソーダにしな。少し分けてやるよ」
「ほんとー? ありがと、マツダおじちゃん!」
「……だからおじちゃんじゃねえって」
落胆したマツダをミツギが笑って、それから少し申し訳なさそうにした。
「悪いな」
「いいんだよ、これくらい」
「オレ、りんごね! パパとマツダがアイス買ってくれるから、オレたちはベンチで待ってようね」
タカラが子供の手を引いてベンチに向かう。
「おい、お前は自分で払えよ」
マツダが呆れたように言うと、タカラは振り返って言った。
「マツダおじちゃん、お願ーい!」
「お前にまでおじちゃんと呼ばれる筋合いはねえ!」
マツダはそう言ったが、仕方ねえなあと笑った。
ベンチに座ったタカラは、隣で足をぷらぷらさせながら座る子供の頭を撫でた。
「〇〇」
「んー?」
名前を呼ばれてタカラを見た子供の瞳は、太陽に照らされて、キラキラと輝いていた。
「よくもまあ、あそこまでミツギを騙せてるね。ねえ、アーヅマ」
「……あづま?」
きょとんとした子供の瞳がタカラを映している。
「オレを誤魔化せるわけないじゃない。オレ、子供の頃からアヅマを見てるんだよ? お前、子供の頃のアヅマにそっくりだよ」
不思議そうな顔をした子供は黙ったままで、二人の間に沈黙が流れる。子供がゆっくりと前を向いて、勿体ぶるようにタカラを振り返った。
「あーあ、タカラは誤魔化せねえかあ」
子供は、子供の声で、ひねた大人びた口調で話した。
「だってさ、写真見たけど、ミツギの奥さん、アヅマのお母さんにどんどん似ていったよね? あれもアヅマのしわざ? というかもう成り代わってたの?」
子供は、――アヅマは外見に似合わない、ニヤリと口角を上げた笑い方をした。
「俺って、お袋似だったんだな。知らなかった。俺が女だったらああいう顔だったってことだよな」
「奥さんに成り代わって、ミツギの子供として生まれて、奥さん殺したのもアヅマでしょ?」
「さあな」
瞳を弓形にして怪しく微笑むその顔は、子供のものとは到底思えなかった。
「すごい執念だね。感心しちゃうよ」
「ミツギにこのこと言う?」
試すようにアヅマは尋ねる。
「言わないよ。第一、オレの頭がおかしいって思われるし、誰も信じないよ」
「まっ、そりゃそうね。俺はずっとミツギのそばに居るって決めたんだ。だから家族になろうと思った」
「ふーん」
楽しそうに子供の形をしたアヅマは笑う。
「……家族になるなら、あの女に成り代わるだけじゃ、足りねえ。血が繋がってないと。血の繋がりって絆だろ?」
「アヅマがそんなことを言う日が来るなんて、思いもよらなかったよ」
タカラが大きな瞳を驚きに瞬かせた。
「血の繋がりっていう縁は、切ろうと思っても永遠に切れない。唯一の繋がりだ。俺の体にはミツギの血が流れてる。あのクソみたいな両親の血はもう流れてねえ。だから、この絆を喜んで受け入れるよ。俺たちは親子だ。死が俺たちを別つまで、ずっと、ずっと一緒に、ミツギのそばに居られる」
アヅマは大人びた顔で、本当に幸せそうに笑った。遠くからマツダとミツギの声が聞こえる。ミツギがソーダアイスを持って、ベンチに近付いて来るのが見えた。瞬時にアヅマの顔は子供のそれに戻り、子供の声でミツギを呼んだ。
「パパー!」
嬉しそうにミツギに駆け寄り、足元で戯れついている。ミツギは膝をつき、アイスを子供に差し出した。
「ありがと、パパ!」
アイスを片手に子供はミツギに抱き付いた。
「おい、こら……! まったく、仕方ねえな」
言葉とは裏腹に、大切そうに子供を抱き上げた。きっとミツギは死ぬまで、いや死んだとしても知ることはないのだろう。アヅマの行方も、妻が死んだ理由も。タカラはこの親子の行く先を見守ることしか出来ない。