エリュシオンの墓標
俺の恋人は優しい。同棲を始めて、数ヶ月経って、実感する。口は悪いし、亭主関白なところもあるけれど、色々な気遣いをしてくれて、俺の夢を応援してくれて。相変わらず、汚部屋製造機で、食事の準備さえろくに出来ないけれど、それは俺がやればいい。幸せな生活だった。
ミツギがコトハラさんの墓参りに行くと言うので、着いて行くことにした。よく手入れされた墓石だった。生前は人々に慕われた、本当にいい人だったのだろうなということが感じさせられる、そんな墓だった。水をかけて拭いていると、ミツギが線香に火を点けている。風に吹き消されないように手を翳して。花立に花を供えて、手を合わせる。
(ミツギをここまで育ててくれてありがとうございます、おかげでミツギと出会うことが出来ました)
俺が言うのも変かもしれないが、そう思いながら。草を毟る必要もなく、すぐに終わってしまった墓参り。頻繁に親族が手入れをしているのだろう。明るい空を仰ぎながら、俺は言った。
「今日、晴れてよかったな」
「ああ」
線香の、亡き人を思う匂いを嗅ぎながら、何だか感慨深くなってしまう。ミツギが居なくなってしまった、あの日。勝手に手帳を見て、この寺にやって来たけれど、あの時はミツギを連れ戻すことに必死で、ろくに見ることさえしなかった。でも、またこうして、ミツギと共にコトハラさんに会えた。それが嬉しかった。まるで、ミツギと本当に家族になれたような、そんな気がする。
「……なあ」
「ん?」
ミツギは何だか言いづらそうに、そして何かを決心したかのように、言った。
「アヅマ、お前ん家の墓参りには行かねえのか?」
「……っ」
心臓が止まるかと思った。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「んー、そうね……。俺、墓の場所、知らねえのよ。というか、覚えてない。葬式した後、納骨したとは思うんだけど……、その頃の記憶、あんまりなくってさ」
「……そうか。お前がいいって言うなら、一度行ってみたかったんだが…………」
ミツギには家族のことは詳しく話していない。だが、彼が唯一知っていることがある。それは俺が弟を手にかけたということ。
「そんなに興味あるん」
「興味っつーか、お前の家族だからな。一度は挨拶くらいしたかったんだ」
家族。その言葉がイマイチ、ピンとこなかった。あんなもの、家族という括りに入れるのも、悍ましい。あれは親という肩書きを持っただけの、悪魔だ。だが、弟は。すぐにその話は立ち消え、二人でコトハラさんの話をしながら、自宅に戻った。
部屋の片付けをして、食事を作って、ミツギの帰りを待ちながら、考える。
(墓参りかあ……)
そんなこと、一度も考えたことがなかった。あんな奴らのために、墓を訪れるなど考えてもみなかった。そして、子供の頃は全くと言っていいほどなかった、大人に近付くにつれ生まれた、弟への罪悪感がさらに墓から足を遠ざけさせた。本当にどこに墓があるのか知らないというのも、もちろんある。でも、ミツギが墓参りに行きたいと、言うのなら。この際、向き合ってみるのもいいのかもしれない。弟を殺した罪悪感で押し潰されそうだったが、彼と一緒なら。そう思った。玄関の方から、鍵の回る音がする。彼が帰ってきた。俺の愛しいひと。
「お帰り」
「ん」
ミツギがスルスルと脱ぎ捨てるジャケットやシャツを受け取りながら、ハンガーにかける。
「ミツギ、あのさ」
「なんだ?」
「俺、俺ん家の墓、探そうと思う」
「……そうか」
振り返ったミツギの瞳は優しかった。そのまま誘われるように、ミツギの腕の中に収まる。安心できる、優しい匂い。ずっとこうしていたい、そう思った。
「ねえ、お兄ちゃん、楽園ってどんな場所?」
アルバイトが休みの日、昔、俺が居た児童養護施設に行った。職員の人たちは、見覚えのある人もない人も居て、俺を知っている人たちはみな、懐かしがってくれた。庭では子供が元気に走り回っている。応接室に案内され、ソファを勧められたので座る。主に俺の世話を焼いてくれた老年の女性が、にっこりと微笑んで、今日はどうしたの? と尋ねた。
「俺の……、家の、墓の場所って知らないっすか?」
「アヅマくんの家のお墓……? そうね、ちょっと待って」
彼女は応接室を出て行き、何分かした頃、ファイルを持って現れた。ファイルの背には、日付と俺の名前が記されている。
「んー、もしかしたら、書いてあるかもしれないけれど……。そうねえ、このあたりかしら……? あ、あった」
彼女がファイルを俺の方に向けて、指差した。ここから数県離れた寺にあるようだった。アヅマはそれを見てメモを取り、紙を丁寧に折りたたんで、しまった。
「アヅマくん、お墓参り、行くの?」
「んー、そうしよっかなあって」
「そう」
彼女は微笑みを崩さず、そして余計なことは言わずに、アヅマを見ている。
「突然来て、すいませんでした。それから、ありがとうございます」
「いいの。また遊びに来てね」
彼女の優しい笑みに見守られながら、アヅマはこの懐かしくも寂しい施設を後にした。
夕食が終わって、二人でソファでぼうっとテレビを眺めている時、ミツギに墓の場所が分かったことを報告した。
「……そうか」
「今度の休み、行ってこようと思ってる」
「俺も行くか?」
「いや、いいよ。俺一人で行く」
「そうか」
珍しく少しだけ困ったような顔をしたミツギが、何だかおかしくて、彼のサラサラの髪を掻き回した。
「な、何すんだ、てめえ」
「ミツギが、俺のこと心配してくれてんのは分かってるよ。でも、これは俺が向き合わないといけないことだからさ。帰ってきたら、話聞いてくれよ」
本当は彼と行こうかと思っていたのだが、最初は一人で行くべきだろうと考え直したのだ。
「……ん」
ちょいちょいと指を動かして傍にくるように促されたので、逆らわずにミツギのすぐ隣に座った。ミツギはそっとアヅマの肩を抱いた。
「頑張ってこい」
「うん」
ああ、やっぱり、この人は優しい。俺の楽園はミツギの隣にある。
「ねえ、お兄ちゃん、楽園ではどんな花が咲くの?」
電車を乗り継いで、何時間もかけて、とある県の寂れた寺に辿り着いた。スマホを確認しながら来たが、本当にここであっているのか疑問に思うほど、寂れて何の気配もない、打ち捨てられているとしか言いようのない、そんな寺だった。墓のある場所を探して、境内の中をふらふらと歩き回り、やっとそれらしき場所を見つける。ほとんど墓石はなく、あっても誰も世話をしていないと思わしき、墓しかない。墓石に刻まれている名前を見ながら、墓を探す。敷地の一番端、苔むして分かりにくいが、確かにアヅマ家の墓と思わしき墓があった。墓石の裏側に回り、名前を確認する。親父とお袋、そして弟の名前が刻まれていた。
(……これが、俺の家の墓)
両親の名前を見た途端、封印して蓋をしていたはずの、恐怖、絶望、そして憎しみが蘇った。怒りに任せて唾を吐きかけたが、思いとどまる。苛立ちが収まらず、地面を蹴った。こうなる気がしていた。やはりミツギを連れて来なくて良かった。ここに居るのは両親だけではない。何の罪もなかった弟も眠っている。持ってきていた雑巾でを水で濡らし、墓石を拭く。苔が取れて、刻まれた名前が、はっきりと読める。弟が生きていたら、二十一歳になっていた。そのはずだった。
『うわあああ』
『うるせえんだよ! 泣くんじゃねえ!』
親父が弟を殴る。殴られた弟の顔は腫れ上がり、唇は切れて、血を流している。アヅマは咄嗟に、力なく床に伏した弟に駆け寄り、庇った。
『お父さん、やめて!』
『お前、俺に指図すんのか?! 生意気なんだよ!』
胸倉を掴まれ、今度は俺が殴られる。殴られた頬も痛いし、身体が完全に浮いて息が苦しい。父親はアヅマを床に落として、不愉快そうに鼻を鳴らして、部屋を出て行く。完全に居なくなったことを確認すると、弟の方を振り向く。
『大丈夫か?』
『……、お、に、いちゃん』
弟の目の焦点が合っていない。アヅマは自分の顔の腫れを気にも留めず、弟の唇の血をティッシュで拭ってやり、冷蔵庫の氷をビニール袋に入れて、それをタオルで巻き、弟の頬にあてがった。
『もうお父さんは居ないよ』
『……』
弟の目の焦点がだんだんと合っていき、その目がアヅマを捉えた。
『お兄ちゃん』
『お兄ちゃんは、ここに居るよ』
『お兄ちゃん、いつもごめんね……』
弟の瞳から涙が溢れた。弟は知っていたのだ。いつも弟を庇って、弟の分まで暴力を振るわれる兄のことを。
『何言ってんだ。気にすんな。だって、俺はお兄ちゃんなんだから』
『お兄ちゃん……』
痛む頬を歪ませながら、アヅマは笑った。弟は自分の頬にあてられている氷をアヅマの頬にあてがった。そんな弟に、しょうがないな、とアヅマは目を細めた。あんな両親の元に生まれてしまった、可愛くて、可哀想な、俺の弟。俺が守ってやるんだ。
弟が死にたいと言った、あの日。俺がお前を楽園に連れて行くから――、そう約束した。それ以来、弟は楽園の話を聞きたがった。アヅマは学校の図書室で何となく読んだ、なんとか神話の本に、楽園のことが書かれているのに気が付いて、借りてきた。
『ねえ、お兄ちゃん、楽園ってどんな場所なの?』
『えーっと、神様にとくべつにしゅくふくされた人が行くところだって』
『とくべつにしゅくふくされた人ってなに?』
『何だろうな……。んー、えいゆうとかせいぎの人だって』
『せいぎの人って?』
『悪いことをしない人だよ』
ふと、弟との会話が脳内でこだました。楽園は英雄や正義の人が行くところ。あの本にはそう書かれていた。両親のような、悪辣を絵に描いたような人間が行くところではないのは、確かだ。弟は、楽園に辿り着けただろうか? アヅマの身を知る雨がぽつりと降る。
「ごめん…………、お兄ちゃん、お前を楽園に連れて行くって、約束したのに……。なあ……、お前は、……お前なら、楽園に行けたよな? ごめんな……」
弟を手にかけたあの時、愕然とした表情が絶望の色に染まっていくのを、ぼんやりと見ていた。それが今でも、目に焼きついて、離れない。
アルバイト中、ふと視線を感じた気がして、視線をやると、少年が立っている。
(あんな子供、店に入って来たっけ?)
よく見て、ひゅっと喉が鳴った。ガリガリに痩せて、小汚い服装の、子供――。弟だった。目を見開いて、驚愕する。目が乾くほど、凝視してしまう。
「ぱ……、ぱい、先輩!」
「……えっ」
涙が溢れて目を擦ると、もう弟は消えていた。オギノが不思議そうにアヅマを見ている。
「どうしたんすか?」
「いや、何でもねえ。ところで、どうかした?」
「店長が呼んでるっす」
「悪りい、行ってくるわ」
弟の姿を振り切るように頭を振った。
しかし、それ以来、弟の姿をそこここで見るようになった。アルバイトの時、道を歩いている時、買い物をしている時、そして家に居る時にも。弟は何も言わず、ただアヅマを見つめている。時々、口が動いている時があるが、何を言っているのか、分からない。声が聞こえないのだ。
(幻覚……だよな……?)
墓参りに行ったせいで、ナーバスになっているのかもしれない。あの頃と変わらない姿で、大人になった俺を見ている。それが例え幻覚だとしても、つらかった。俺が殺したせいで、何の喜びも楽しみも知らず、大人になる前に死んだ弟。この幻覚のことはミツギにも言えなかった。心配をかけてしまう。ミツギの前では元気な振りを続けたが、正直に言って、消耗している。しかもミツギによると、夜魘されているというのだ。アヅマ自身は覚えていないけれど、泣きながら誰かに謝っていると。恐らく――、いや十中八九、弟に謝っているのだろう。最近は悪夢など見なかったのに。たびたびミツギに起こされて、泣いている自分に気付く。ミツギは、そのたびに何も聞かずそっと涙を拭ってくれ、抱き締めてくれる。それだけが救いだった。
今日も夕食の支度をしていると、弟が後ろに立っていた。驚いて身を硬くしたが、彼は何も言わない。溜息を吐いて、作業に戻ろうとした時――。
「嘘つき」
「……っ!」
ハッキリ聞こえた。忘れもしない、忘れることなど出来ようもない、弟の声だった。振り返ると弟はもう居なかった。足が震えて、その場にへたり込む。足だけじゃない、手も震えている。恐怖に、罪の意識に涙が溢れた。弟は、約束を破った俺に怒っている。
茫洋とした意識の中で、微かに声が聞こえる。それがだんだん大きくなっていく。
「……い、おい! アヅマ!」
「……え」
ミツギがスーツ姿のままでアヅマの顔を覗き込んでいた。ミツギの鞄が傍らに落ちている。どうやら仕事から帰ってきたらしい。ミツギの両手がアヅマの肩を揺らしている。
「……あ…………。おかえり」
「おかえりじゃねえ! どうしたんだ、そんなに泣いて」
アヅマの両頬には幾筋の涙の痕が残っており、着ていたティーシャツが濡れていた。
「……何でもない」
アヅマは慌てて立ち上がり、料理が途中だったことに気付いた。
「ごめん、夕飯出来てねえや」
「メシのことはどうでもいい! 何かあったんだろ?」
「ほんとに、何でもない。何か気付いたら、泣いてた。それだけ」
眉間に眉を寄せ、ミツギがアヅマを見つめた。その視線から逃れるように、身を捩った。
「これから、夕飯急いで作るから、待ってて」
「……本当に、何でもないのか?」
「ほんとだって。ミツギって意外と心配性だな」
笑みを貼り付けて、ミツギを見つめ返すと、彼は納得いっていなさそうだったが、引き下がった。そんな二人を、部屋の片隅で、弟が見つめていた。
『ねえ、お兄ちゃん、楽園ではどんな花が咲くの?』
『どんな花だろうな。分かんねえけどきっと花畑があるんだろうな』
『はなばたけ?』
『花がいっぱい咲いてるってことだよ』
『そっかあ、じゃあ奇麗なんだろうね』
『そうだな』
嬉しそうに弟が笑う。弟のこんな嬉しそうな顔を見るのは、本当に久しぶりで、アヅマも自然と笑みが溢れた。
『お兄ちゃんとずっと一緒に居られる?』
『当たり前だ。俺がお前を楽園に連れて行くんだ。ずっと一緒に決まってるだろ?』
『そっか……、そうだよね! じゃあ約束だよ。お兄ちゃんとぼくはずっと、ずーっと、一緒だよ!』
弟が右手の小指をアヅマに向けた。アヅマも右手の小指を出して、弟のそれに絡めた。
『ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本。ゆびきった!』
楽しそうに二人は約束をした。声を合わせて、ゆびきりをする。ずっと、ずっと、俺たちは一緒だ――。
「…………!」
アヅマは飛び起きた。汗みずくで、寝巻きが汗で湿っている。隣のミツギは眠っている。
(……そうだ、約束したんだ)
弟と約束したのだ。大人になったら、こんな地獄から抜け出して、お前を連れて楽園へ行くと。その楽園と呼ばれる場所で、俺たちはずっと一緒だと。でも違えてしまった。俺は、自分が生き残りたいという、ただその願望のためだけに、何の罪もない弟の首を絞めて殺した。あの、何の自由もない鳥籠の中に置き去りにしてしまった。太陽の光も知らず、大人になれずに、殻の中に取り残されて、死んだ可哀想なヒナ。
(約束を果たさないと……)
お前を必ず楽園へ連れて行く。それが俺の使命。お前とした約束。
(だけど、俺はお前と同じところへは行けないんだろうな……。ああ……、行けないな。ごめんな。結局、約束、破っちまって)
お前は汚れを知らない、清らかな翼を持っているけれど、俺の翼は血で汚れてしまっている。翼を失ったアヅマを、逃れられない罪が身体を啄んでいた。傍らで眠るミツギの顔を眺めた。自分を守ることしか知らなかった、誰かに愛されることを知らなかった俺を、慈しんでくれた人。誰かを心から愛することを教えてくれた、いとしいひと。彼の傍で僅かの期間だったが楽園を知った。アヅマにとってはそれだけで充分だった。それ以上は十字架を背負った己の身に余る。そのかんばせに触れようとして、手を止めた。俺の手は、この美しい人に触れるには、汚れすぎている。さようなら、もう二度とは会えない、愛しい人よ。
(もう行かないと)
もう一人の、愛しい人のところへ。守りたかった、可愛い弟のところへ。ああ、今度こそ、約束を果たそう。たとえ、同じところへ行けなくとも。お前は楽園へ行けるだろう。そして必ずお前を楽園へ導こう。そこは、神々に|嘉《よみ》せられし人々の住まう、至福者の島。そして、俺は奈落へ堕ちる。あの本に書いてあった。極悪人は奈落へ堕ちて、永遠の責苦に苛まれるという。きっと、俺にはそれが相応しい。
(同じ|楽園《ばしょ》に行けなくても、きっとこの|世界《げんじつ》に居るよりはお前のそばに居られる、そんな気がする……)
カーテンを開けて、窓を解き放つ。雨が降っていた。ベランダに立つと、雨粒が顔に当たる。夜中の街は静かな雨に煙っている。
(泣いてるのか?)
ごめんな、こんなお兄ちゃんで。でも約束を果たすよ。必ずお前を楽園へ連れて行く。ベランダの柵に座る。足をぶらぶらと揺らすと、身体に浮遊感が湧くが、不思議と怖くない。お前の恐怖に比べれば、些細なことだ。
「待っててくれよ」
一歩、踏み出した。そこはもう誰にも支配されない、自由な世界だった。殻から出られなかったお前にもそれをあげたい。アヅマは浮遊する中で、天に向かって手を伸ばした。
「お兄ちゃん」
弟の声がした。きっとそこに楽園はある。お前なら行けるよ。弟が笑っている。本当に、本当に、良かった……。
「アヅマ!」
遠くに金色に光る星が見えた気がする。最期にいいものを見た。美しきもの。貴いひかり。罪深い俺にはもったいない――。星がこちらに向かって、何かを差し出した気がするけれど、もはや遠く。もう光は見えない。俺は奈落の底へ行く。星も弟の顔も、何もかもが真っ黒に塗り潰された。